第八話:ヴァルサス

 それは数年前のカンナ歴14年の春だった。
 男性ばかりの中等教育の場、男子中学へ通っていたヴァルサス・アゼリアは、無事3年間の義務教育を終え、オウカ町の隣にある「梅の木高等学校」へと進学を果たしていた。
 この「梅の木高等学校」は、男性も女性も通う共学の高校で、成績が一定水準を満たさなければ卒業ができない事から、首都の中では中の上ほどに水準を持つ、それなりに優秀な生徒が集う高校でもあった。
 そんな進学校にも近いシステムの高校で、入学式を終えたヴァルサスは、共に参加した両親と別れて一人教室へと向かう。

 初日の活気豊かな廊下は、壁に連絡事項や部活の紹介が貼られており、中学校とは少し違う大人びた雰囲気が立ち込めていた。

 新しい空気を肌で感じる中で、ヴァルサスの感情は僅かに緊張し大きな期待を抱く。それは小学校を出て男子中学へと進学したヴァルサスは、小学校を卒業してから異性との繋がりがほとんどなくなり、共学と言う環境へ憧れを持ってしまったからだ。
 可能なら異性の友達か、あわよくば恋人を作りたいと願い、必死に勉強をしたヴァルサスだったが、女性と言う存在に慣れずすれ違うだけでも緊張して背筋が伸びる。
 早く慣れなければと言い聞かせても体がついてゆかず終始落ち着く事ができなかった。

 ヴァルサスは、父サカキと母シキミの間に生まれた2人兄弟の弟で、父サカキが宮廷騎士として宮殿に仕える騎士貴族でもあった。
 宮廷騎士は騎士貴族だが、騎士の称号は世襲ができず、その家族や子は一般の枠を出ることはできない。が、その称号は信頼ある家柄として扱われ、宮殿にまつわる仕事には優遇される為に、ヴァルサスはそれが自身の一つのステータスかもしれないという期待を持っていた。
 宮廷騎士団と言う組織との繋がりは、その時点で国からの厚い信頼があり、女性が放っておく筈はないと確信を持っていたからだ。

 様々な生徒とすれ違う廊下を抜け、たどり着いた教室は、ヴァルサスが想像していた以上に活気に溢れていたが、ここに固まって談笑を楽しむ生徒達の中に一際目を引く男性がいた。
 少し長めの銀髪を持つ彼へ、周りの生徒は魅了されるように声を掛けにゆくが、皆が軽くあしらわれて帰ってゆく。

「貴族ってやっぱりガード硬いなぁ」
「同じクラスだろ? そのうち緩くなるって」

 付近の生徒の小声に、ヴァルサスは関心していた。
 オウカ国での貴族は、領主として土地を所有する場合、子供が土地を引き継いでも困らないよう高校のから政治について学ぶのが当たり前となっている。よって本来なら専門的なことが学べる王立や私立へ通う事が殆どだが、この公爵家が管理を預かる国立にいるのは珍しい。

「やっぱり雰囲気が違うよなぁ」
「俺らとは大違い」

 ヴァルサスは生徒の話など聞こえないフリをして、黒板に張り出されていた指定の机へ腰を下ろす。
 読書をしている貴族は、周りの目線を気にもせず興味をもった様子もない。
 いけ好かないやつだとヴァルサスは一瞥していた。
 そして、レクリエーションと自己紹介を終えたクラスは、日々を重ね授業も始まってゆく。
 淡々とした日常に慣れてくるとヴァルサスへ話しかけてくる生徒もいて、彼は自然と男性グループの中へと溶け込んでいた。
 この高校にきた理由とか、家のことを話す中で、クラスの3割ほどに騎士貴族がおり、宮廷騎士も珍しくはない事へがっかりしたが、話しかけてくれる彼らは情に厚く、ヴァルサスもまた友人として付き合いを重ねていた。

「アゼリア、ちょっと手空いてる?」
「ん?」
「これ投票してくれよ」

 午前の授業が終わった頃に、普段から絡んでいる男子生徒が声をかけてくる。
 彼が渡してきたのは番号が書かれた女性の写真とノート紙で数えたような線が記載されていた。

「誰が好み?」
「そういう?」

 悪そうに笑う彼にヴァルサスは写真を吟味する。数えた線は投票数であり、これはクラスの人気投票だ。
 写真と照らし合わせて見ると一番は確かにアイドルのように可愛らしく思わず凝視してしまう。

「俺はこっち」

 指さされたのは2位の女性だ。胸をトントンと指差していて思わず睨んでしまう。

「そっち?」
「でかい方がいいだろぉ」

 照れもせず話す彼に、ヴァルサスは満更でもなかった。二番手の彼女もアップにした髪がとてもよく似合っていてボーイッシュな爽やかさがある。
 一位はアイドル系、2位はスポーツ系、3位は清楚系が続き、ジャンルに事欠かない。これは共学の醍醐味だと新鮮さを感じていると、突然目の前が翳った。
 視界を塞ぐように目の前に現れたのは、胸が目立つ女性生徒だ。

「何してるの?」
「げっ、アンズ……」

 アンズと呼ばれた彼女は、ヴァルサスの隣にいた男を睨み、気を抜いていたヴァルサスの手からノート紙を奪い取った。そして中身を見て更に二人を睨みつける。

「みんな嫌がってるの。こう言うのやめて、この写真も盗撮でしょ?」
「ひぃ、すいません……」
「なんで怯んでんだよ」
「アンタもやめて」
「つまんねー奴だな。いちいち文句言いにくる暇あったら他にやることあるんじゃねーの?」

 後ろの女子生徒が「はぁ?」と声をあげる中、アンズは何も言わずノート紙を破り、片手で机を蹴り上げて吹っ飛ばした。
 甲高い音が教室中に響き渡り、整頓されていた机が錯乱するように倒れる。その場にいた生徒達は、皆絶句して静まり返った場を見据えていた。
 しばらく間をおいて、アンズは髪をすいてその場を立ち去ってゆく。
 
「こえー……」

 ヴァルサスは言葉がないまま、破られたノート紙をみて苦笑する。
 その後話していた彼と机を戻すと、昼休みの事件はまるでなかったかのように午後の授業が始まっていった。

 そして放課後。ヴァルサスは正門からではなく裏門を通った近道を利用して帰路へついた。
 正門の逆側には運動場があり、道を挟んだ先にはテニスコートが隣接していて、ヴァルサスはその運動場とテニスコートの間の道を通ってバス停を目指す。
 運動場とテニスコートは、練習をする野球部とテニス部の掛け声が響き渡って賑やかだが、テニスコート側では、耳へ触る黄色い声が響いていた。
 女生徒が集まって一点を見つめるその先には、先日「貴族だ」と噂されていた彼が、キラキラとした汗を散らしてテニスへと打ち込んでいる。

「誰が一番になるかなぁ?」
「私はテオ君だと思う」
「私はツルミ先輩!」

 黄色い声をあげる女子生徒達に紛れ、三人の女性がノートに何かを描きながら相談をしていた。
 集まった生徒へ聞いて周る彼女達は、投票を促している様にも見え、ヴァルサスは思わず眉間に皺を寄せた。
 先程、アンズに注意された事を女子生徒もやっている。
 気分が悪くなり思わず口がでてしまった。

「つまんねー事やんなよ」
「誰あんた? ご安心を、圏外に興味ないですぅー」
「は?」
「貴方が一番つまんないですよ」
「ねー」

 思わず言葉がつまり、笑われて恥ずかしい。何も言わず無視して立ち去ったヴァルサスを、試合を終えた1人の部員が見えなくなるまで見送っていた。

 自宅へ帰ったヴァルサスは、帰宅しても気持ちが収まらず対戦ゲームで憂さ晴らしをするが、気持ちが整わないまま負け越し、次の日は少し寝不足で朝を迎える。

 学校では、朝から再度人気投票をやり直していると言われるが、ヴァルサスは断り、この件にへの関与はやめることにした。
 アンズの行為をヴァルサスは正しいとは思わない。しかし誰かが不快になる行為をやるべきではないとアンズの行動で思い出した、それだけだった。

 午前の授業の後、ヴァルサスは一人で持ってきたお弁当を広げて昼食を取る。
 ヴァルサスの母は、料理がとても苦手で、ヴァルサスと兄シュトラールの物心がつくまでは、その食事の殆どを使用人のカエデが作っていた。しかし兄の年齢が上がるにつれて料理担当が兄へと移行し、今ではお弁当も兄が作っている。
 そんな兄の料理は、彼のの理想の「母の味」を追求されていて蓋を開けると男のような雑さは微塵もなく、完璧な彩りと繊細な盛り付けが目を引くが、兄の性格を思い出すと素直に感謝できないのも本音だった。

 それは感情が先に出るヴァルサスとは違い、兄シュトラールはストイックでリアリストでもあり、ダメな事をダメだとはっきりと言う兄が、カラフルなカップにミニトマトやパスタなどの惣菜を詰めているのを想像するとギャップがありすぎて脳が受け入れを拒否する。
 しかしその本音を一回でも口にすれば父の右ストレートが飛んでくることが想像できて、心の奥底へ閉じ込めていた。

「かわいいお弁当だね」

 え? と顔を上げると凛々しい顔がそこにありヴァルサスは動揺した。
 銀髪の綺麗な顔立ちを持つ彼は、優しい笑みでこちらを見下ろす貴族、テオドール・シャトレッド。
 この高等学校で数少ない地主貴族の嫡男であり、昨日テニスコートで汗を流していた彼だ。

 ヴァルサスは彼の言葉を理解するのに数秒を要し、理解して目を逸らす。

「かわいいとか言うなよ。好きでやってんじゃねーし」
「そうなんだ? 母さんのかい?」
「……兄貴」
「え、珍しいね」

 テオドールの意表をつかれた表情は想像通りで恥ずかしくて仕方がない。

「今日のお昼、一緒にしていいかな?」
「俺と? なんで?」
「ダメかな?」
「ダメじゃねぇけどさ」
「ありがとう」

 テオドールは嬉しそうに前の席の椅子を回し、ヴァルサスと向き合うようにお弁当を広げる。
 運動部の彼のお弁当箱は、それなりに大きく、デザインはどこにでも売っていそうなシンプルなものだった。その中身も本当の意味で「普通」で拍子抜けしてしまう。

「そっちは母さん?」
「ううん。これは使用人が作ってくれたんだ。シンプルにしてくれって頼んだ」
「へぇー」

 流石貴族とも言える返答に平たい返事しか返せない。ヴァルサスの自宅にも使用人のカエデがいるが、兄が「悪いから」とキッチンを開け渡さないのでこうなっている。

「俺になんか用事?」
「昨日、格付けされてる僕を気にしてくれたのかなって」

 思わぬ言葉にすぐ返事が出てこなかった。

「嬉しかったんだ。ありがとう」

 深く考えてはいなかった。
 ただ昼に起こった同じ事があり、思わず口が出てしまったのだ。アンズがやめろと言っていたのは嫌だからこそで、彼女が嫌なら他にも嫌な人物がいると思った。

「お前なんて気にしてねぇよ」
「そうか、でも助かったよ」

 テオドールは目を合わせず、黙々と箸を進めていた。
 何を話せばいいかわからないまま、テオドールのみがヴァルサスの名前と家柄。出身中学などを問いただす中で、テオドール自身も聞いてもいないのに色々話してくれる。

 クランリリー領の辺境地区を収めるシャトレッド領は、サフィニア領と隣接していてそれなりに広い場所らしい。

「シャトレッド領には、今父さんだけなんだ。母さんは別居してて、僕は首都の母さんの家からここに通ってる」
「へぇー、母さんは料理しねぇの?」
「うちの母さん、料理苦手なんだ」

 思わず共感して嬉しくなった。料理が苦手な母を持つと父が料理を作ることもあるが、その過程手間必ず起こり得ることがある。

「父さんの料理ってこう味がいつも同じとか」
「わかる。不味くはないけど、材料違うのに不思議だよな」
「ほんとそうだよね」

 ヴァルサスもそうだが、テオドールも幼い頃は家の使用人が少なく父が作ることもあったらしい。男性特有の豪快な料理は、好みが強く反映され味が偏ってしまうのだ。

「そんな小さい頃から別居してんだ?」
「母さんは、シャトレッド領の人達が肌に合わないらしくてさ。でも父さんとは仲はいいんだよ。良く行き来するしね」

 相槌だけを打っていた会話がいつの間にか興味深くなり思わず詳しく聞いてしまう。両親が別居していることへ良いイメージはなかったヴァルサスだが、テオドールの態度を見てそれは決して悪い意味だけではない理解した。
 お弁当を食べ終えても雑談に花を咲かせていた2人は、昼休みが終わる予鈴に顔を上げる。

「明日もここで食べていいかな?」
「別にいいぜ」
「ありがと」

 テオドールは、嬉しそうに席を立ってゆく。貴族となど対等に話せるわけではないと考えていたヴァルサスにとって、テオドールはその印象を覆してくれた貴族でもあり、新鮮な感情が芽生えていた。
 

「おはよう。ヴァルサス」

 次の日に最初に話しかけてきたのは、テオドールだった。
 登校したヴァルサスが仮眠を取ろうとしていたところへ、先に来て自習をしていたテオドールがわざわざ声を掛けにきたのだ。

「おはよ……」
「目に熊ができてるよ。寝不足?」
「ゲームやりすぎちまってさ。ちょっと寝るわ」
「え、起きてくれよ。ヴァルサスはスポーツとかしないの?」
「スポーツ?」
「今日、僕のテニス部の見学会をやるんだ。レギュラー入りをかけて先輩と試合をする」
「へぇー、ーってまだ入ったばっかなのに?」
「色々あってさ。よかったどう? テニス部、練習はキツイけど勝った時めちゃくちゃ気持ちいいんだ」

 渡されたのは見学会のビラだった。隅には新入部員募集と書かれていて意図を理解する。

「勧誘?」
「うん、見るだけでもどう?」
「嫌いじゃねぇけど、テニスなぁ……」

 ヴァルサスのテニスの経験は、中学校での授業ぐらいしかない。父と母は、昔流行していた時期があり少しやっていたそうだが、ヴァルサスは興味もわかなかった。
 しかしここでテオドールがあえて勧めに来てくれたのは「友達」として信頼されているようにも思え、期待に答えたくなる。

「見るだけだぜ」
「やった。じゃ、放課後にね」

 ビラを見返すと区大会への出場経験と部員達の様々な戦績が一覧されていて本格的に取り組んでいることが伝わってくる。
 宮廷騎士の子となるヴァルサスは、父にサーベルの扱いについて習ってはいるが、スポーツは興味が湧かず中学で部活を体験しても続くことはなかった。
 今更やれる自信がないままヴァルサスは放課後、テオドールに連れられてテニス部のコートへと向かう。

 そして校舎の裏、運動場の隣にあるテニスコートには、すでに多くの見学者の黄色い声が聞こえてくるが、その景色はほぼ女性ばかりで男性の姿が見えない。

「なんだこれ……女ばっかじゃん」
「先輩が試合するといつもこうなっちゃってさ。僕も着替えてくるから適当にみておいて」

 現場の印象は、「男性見学者が少ない」だった。また女性見学者の殆どは、テニスを見ているのではなく部員を見ていて、練習の参考にしている様子もない。
 女性ばかりの中の男一人となったヴァルサスは、人目につかないようひっそりと影に隠れ、遠目にコートを見学することにした。
 初めは半信半疑で見ていたヴァルサスだが、練習から試合へと変わった時、選手の表情が一変する。
 審判の高らかな声と共に始まったゲームは、キレのある緊迫した球のやり取りから始まり、お互いが均等に点を取り合うまさに戦いだった。
 ギャラリーの歓声など気にならないほどに熱い試合は、お互いが粘りに粘ってようやく完結し、叫ぶように喜ぶ選手と床に手をつく選手2人を讃えるように拍手が響く。
 ヴァルサスは更に近くで見る為に最前線へ割り込むと、ユニフォームを纏ったテオドールが現れた。
 ヴァルサスに手を振った彼は、向かいの現在の主将らしき先輩生徒を睨み構える。
 勝てるのか? と不安になるヴァルサスを尻目に、テオドールはボールを持ち全力で向かっていった。

「全然ダメだった……」
「頑張ってたじゃん」

 見学会の終わった後、テオドールとヴァルサスはコートのベンチで絶望していた。入部して間もないテオドールは、元々趣味のテニスを続けたいと早速テニス部へと入ったが、今日初めて先輩と本気の試合をし、大きな差をつけられて大敗北した。
 中学の頃は同期にもほぼ負けたことがなく、家でも褒められたことしか無かったテオドールは、今回も勝てると思って挑んでいたのに足元にも及ばなかった。

「もう少しやれると思ったのに……」
「点取っただけよくね?」

 項垂れるテオドールにヴァルサスはどう声をかければいいか分からない。ヴァルサスも運動部など入ったことがなく心境が何もわからないからだ。

「カッコ悪すぎる……」
「そこ??」
「大事だろ? こう、見てくれって呼んだら勝って見せたかったし」
「……」

 思わぬ言葉に返答が浮かばない。その言葉は、彼の本音にあった見栄の暴露だからだ。

「俺に勝つとこ見せたかった?」
「うん、ヴァルサスなら僕のことテニスのすごい奴って見てくれると思ってさ」
「どんな期待だよ……別に地主なんだからいいだろ」
「地主でテニスも強かったらかっこいいだろ」
「贅沢言うなよ!」

 思わず突っ込むとテオドールは笑った。ヴァルサスは言葉に困って呆然としてしまう。

「本当はさ、僕も自分の努力で勝ち取ったもの欲しかったんだ。でも部に入ったら先輩に『お前はテニスを見てない』って言われてむかついてさ」
「マジ?」
「うん。負けてめちゃくちゃ気まずい。でも、確かにかっこよさとか見栄のためにやるならテニスじゃなくていいし……。はぁ……もう辞めようかな……」

 呟くテオドールの言葉にヴァルサスはすぐに言葉が出てこない。しかし彼の練習や試合の真剣な表情にヴァルサスは視線をとられたのだ。
 彼が見栄のためにやっていたことは、ヴァルサスが今まで感じたことのない熱意とプライドで形成されていて、普通では到達できない「何か」を感じた。

「辞めるのは、勿体なくね?」
「……そうかな?」
「ずっとやってきたんだろ? 嫌々やってんの?」
「嫌じゃないけどさ」
「なら負けたぐらいでウジウジすんなよ」

 ヴァルサスの脳裏にあったのは先日の憂さ晴らしの対戦ゲームだ。前は負けて負けてほとんど勝てなかったが、日を跨いで遊ぶと昨日は三連勝して気分が良かった。
 勝てる時もあれば負ける時もある。
 運もあるがスポーツにおいては似ていると思った。

「俺だってゲーム負けまくってるけど、やってたら時々勝てるし」
「……」

 テオドールは意表を突かれたような表情をした後、再び頰が緩む。

「比喩下手すぎでしょ」
「うるせぇ、テニスなんてわかんねぇよ!」

 その時には絶望していたテオドールはもういなかった。彼は腹を抱えて笑った後、再び立ち上がる。

「そう言ってくれるならもう少しやってみる」
「おぅ、がんばれよ」

 テオドールが立ち上がり、部室へ戻ろうとした時だった。
 向かいの陰から、怒鳴るような女性の声が聞こえて2人は思わず顔を見合わせる。
 口論のようにも聞こえるそのやりとりに2人は音を立てぬよう、その現場へと歩を進めた。
 するとそこには4人の女性生徒がおり、三人の生徒が1人を囲うように立っている。

「そんな事するわけないでしょ?」
「じゃあアンタのカバンからでてきたこのコスメは何?? これはこの子のなの。このシールが証拠」

 詰められていたのは、以前女子生徒の人気ランキング2位になり、机を吹っ飛ばした女子生徒。アンズだった。
 彼女は三人の生徒に囲まれ、アイライナーにも見えるアイテムを盗んだ事にされているらしい。

「それは、昨日リサが私に試しに使ってって渡してきたのよ!」
「そうなの? リサ」
「えー、そんな事あったっけ?」
「は……」
「はは、ミジメねぇ。ジギリダス人は」

 聞いていたヴァルサスとテオドールの息が詰まった。
 ジギリダス人は、このオウカ国との陸続きに存在する敵国の民族のことを指す。彼らはこのオウカ国と長く争っていが、およそ40年近く前に終戦し、現在はお互いに関与しない断交と言う形を取られているが
、ジギリダス人一部はオウカ国へと移り住み、帰化を望んだ者もいた。
 彼らの子孫たちは現在でもサフィニア領内での定住が許され、オウカ人と共存と言う形で暮らしているが、領外での偏見意識が未だ色濃く差別されることが後を絶たない。

「……なんで、知ってるの」
「ママから聞いたの。関わっちゃダメよって、こう言うの欲しいんでしょ? そう言う国民性ってきいたし」
「要らない! 興味がないって言ったら嘘になるけど、取られたって思われるぐらいなら欲しいと思わない!」
「気持ち悪……」
「おい」

 女性ではない新しい声に、三人の女性生徒が一斉に振り返る。黙って聞いていたヴァルサスだったが、「気持ち悪い」と言う言葉に我慢がならなかった。
 それはヴァルサスが、人気投票を見た時にもっとも良いなと思えたのが、彼女だったからだ。

「ハメんのは卑怯だろうが、いい加減にしろよ」
「何アンタ? ジギリダス人が本当にまともなのか試してるだけよ」
「なんだよそれ」
「だって半分ぐらい監獄で暮らしてるんでしょ? ろくな人いるわけないじゃない」
「人を試すほうがろくでもないと思うけどな」
「はぁ??」
「そのぐらいにしたら?」

 隠れていたテオドールも物陰から現れ、女子生徒達がフリーズする。まるであり得ないようなものを見た彼女達は、凛々しい彼に身じろいでいるようだった。

「テオ君……」
「あの、これは……」
「差別は良くない。彼女もクラスメイトだろう? 仲良くしなきゃ」
「はい! その、メイコ。これあげて良いわよね」
「へ、う、うん。結構使ったし」
「アンズ。友達の証よ。これあげるわ。ごめんね、じゃあねー!」

 アンズにアイライナーを押しつけた彼女は、2人を連れて颯爽と帰ってゆく。しばらく呆然としていたアンズは、歩み寄ってきたヴァルサスに我に帰ったようだった。

「俺に文句つけてきた癖にいじめられんなよ。俺が雑魚になるじゃねーか」

 空気が凍りつき、数秒の間が流れる。
 呆けていたアンズの表情はみるみるうちに鬼の形相へ変わった。

「はーー??? そんなの知らないんだけど!」
「はは、ヴァルサスはデレカシー無さすぎ」
「言いたいこと言って悪いか?」
「別にいじめられてる訳じゃない。今回は私の不注意だっただけ、でも、人払いはありがと、さよなら」

 アンズはカバンを肩にかけ、2人をすり抜けるように立ち去ろうとする。
 走って行こうとする彼女に対し、テオドールは更に声を上げた。

「僕ら、これから街に遊びに行くんだけど、来ない?」
「え??」
「は? 何処?」
「ヴァルサスなら良い場所知ってそうだし?」

 思わず立ち止まったアンズにヴァルサスは困惑したが、彼は2人をレンゲ町のカラオケボックスへと連れて行った。

「こんな狭い部屋初めて入った……」
「来たことねぇの?」

 テオドールが様々なものを興味深く見る中、アンズは淡々と機器の設定を行い、マイクの音量を弄っている。
 ヴァルサスが軽食のメニューを見ていると、アンズが突然大音量で歌い出した。

「待ったなしかよ」
「へぇ、いいね。これ!」

 テオドールはアンズの歌に合わせ、常備されていたタンバリンを叩く。
 ヴァルサスも先に曲を入れようとすると、すでに5曲ほど入れられていた。

「気づかいのカケラもねぇ……」
「メグさん。上手いね」

 メグ? と言われて、ヴァルサスはもう一度アンズを見上げた。アンズ・メグ。それが彼女のフルネームだ。

「名前よく覚えてんな」
「クラスメイトだよ??」

 アンズは雑談する2人に目も括れず歌っている。しかしよく見ると、その目尻へ水滴が滲んでいた。
 歌を歌い湧き上がる感情を誤魔化している彼女にヴァルサスは何も言わずリモコンを下ろす。

「腹減った。シャトレッドもポテト食う?」
「食べる。あと僕はテオでいいよ。みんなからそう呼ばれてるしね」
「じゃ、俺はヴァルでいいぜ」
「助かる」

 ヴァルサスとテオドールは、しばらくの間アンズの歌を聞いていた。炭酸飲料やポテトフライを楽しみ。全員の歌を披露する。

「テオの歌。音痴すぎて笑ったわ。点数も最下位じゃん」
「マイクを持つなんて初めてだったんだよ! よく響くし」
「カラオケの採点ってまず大きな声ださないと点数伸びないんだよ」
「そ、そうなんだ……。メグさん、詳しいね」
「アンタは意外と上手いのね」
「だろぉ? 音楽はちょっと齧ってんだ」

 ヴァルサスの母、シキミは音楽の趣味で、兄と共に少しだけ習っていた事がある。また父サカキもギターが趣味である程度引くこともできた。

 日暮の街を駅に向けて歩くなかで、テオドールは黙り込んだアンズへ口を開く。

「メグさんは、こっちでいいのかな?」
「うん。2人は……?」
「テオは何処に住んでんの?」
「僕はコノハナ町のマンション」
「マジ? 貴族様だなぁ……」

 コノハナ町は、オウカ国最大の駅があり、その付近のマンションはかなり高級で地元では有名でもあった。

「コノハナ町なら、反対方向じゃ」
「女性を大切にするのは貴族の嗜みだよ」
「くっせぇー……」
「こう言う時こそ見栄を張らないとね」

 アンズは言葉を失い顔を真っ赤にしていた。ヴァルサスは雰囲気を壊したい気持ちに駆られるがじっと堪え、2人は何ごともなくアンズを駅まで送り届ける。

「今日は、ありがとう」
「僕も楽しかった。また行こう」

 その時、アンズはまるで救われたような表情をしていた。探していた光を見つけたようなその顔にヴァルサスも意表をつかれてしまう。

「うん。また明日」

 手を振り、アンズは駅の中へ消えてゆく。
 そして三人は、その日からほぼ毎日のように肩を並べるようになった。
 
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 ヴァルサス、アンズ、テオドールの三人は、カラオケに入ったあの日から、まるで普通の友人と変わらない日常を過ごすようになった。
 1人で昼を済ませるアンズの付近に座ったり、テオドールの昇格試合はヴァルサスとアンズの2人で見に行く。
 勉強が苦手なヴァルサスの課題をアンズとテオドールでフォローしたりなど、三人でいる事がもはや当たり前のようになっていた。
 そこからおよそ一年たち、三人が二年生となったある日、テオドールの母の元へ急な連絡が入る。

「シャドレット伯が倒れた?」
「……うん。幸い命に別状はないんだけど、ストレスみたいで」
「伯爵ってストレス大きいって聞いてたけどマジなんだな……」
「……僕はシャトレッド家の長男として、来月から代わりに土地の管理をする事になったんだ」
「マジ? 単位大丈夫かよ」
「向こうでレポート課題はやるから大丈夫」
「テオ君……」
「シャトレッド領には、アンズと同じ境遇の人がたくさんいる。だから守ってくるよ」
「……ありがとう」
「ま、いないうちに勉強して追い抜いてやるよ」
「ヴァルは何のために勉強するのか、そろそろ考えたほうがいいじゃない?」
「うるせぇな」

 テオドールは笑い。その次の月から自身のシャトレッド領へと戻ってゆく。
 列車へと乗り込み首都クランリリー領を出たテオドールは、久しぶりに戻った自領地の風景にほっと息をついていた。
 他の領地とこ境界であり、首都のような高い建物はほとんどなく、あるのは少しだけ賑やかな商店街とスーパーマーケットぐらいだ。
 コンビニの周辺には、地元の学生が屯してアイスを食べていたり、雑談をしながら買い物にきたマダムもいる。
 都会のように高い建物はなく駅前だからこそ人が多いと知るのは、まさにその土地の人間である事を実感させられる。

「もしや、シャトレッド伯の御令息ですか……?」

 駅前にて迎えの自動車を待っていたテオドールは、タクシーから降りてきた大荷物の家族連れに声をかけられた。少しだけ洒落た衣服をきている彼らは、長くシャトレッド領へ定住していた貴族向けの衣服デザインで富を築いた財力貴族だ。

「これは、カミナ殿。お久しぶりです」
「ここでお会いできたのは天命でしょうか。とても光栄です」
「ご家族で旅行でしょうか?」
「いえ、去年からシャトレッド伯へはお伝えしていたのですが、我々は本日から本拠を首都へと移すことにしたのです」
「え……」

 思わず声の出るテオドールに、カミナは少し寂しそうな表情をみせてくる。
 長くシャトレッド領へと住んでいた彼らは、この土地を離れ首都へと引っ越すと話しているのだ。
 辺境地区を管理する伯爵達にとって、その土地に住む財力貴族達は、その懐に入ってくる富から多くの税金を納める必要があり、彼らは伯爵より手厚く優遇されるはずではあるが、土地を持たない事からそこへ定住する義務がなく制度や条例の変更によって他の土地へゆくことが珍しくはない。
 よって伯爵は、富を集めることに長けた住民達とのより深い関係を得よう努力するものだが、彼らが土地を出てゆくことは、その努力が実らなかった事を意味する。

「どうかお気になさらずに。シャトレッド伯との関係性に特に問題はございません。私は昨年度、王都より衣服デザインの賞を賜り、それがきっかけで是非首都にて仕事をしてほしいと言われたまでにすぎません」
「しかしそれは、ここでもできることでは」
「デザインだけならばそうでしょうが、より多くの方々に私のデザインした服を着ていただきたく、生産性の高い首都へと移住し人手を借りようと考えたのです」

 カミナは、今までは自身が衣服のデザインを考え、妻がと娘がそれを形にしてゆく、完全オーダーメイドの衣服を作っていた。一着作るために数ヶ月かけていたものが、首都の組織的なバックアップが受けられるようになり、大幅な生産力の向上が見込めるようになったと言う。

「……そうか。大成しているなら、僕も応援しよう。今まで作ってくれた服は大切にする」
「ありがとうございます。では、間も無く列車が来るようだ。テオドール様もどうかお元気で」
「あぁ、そちらも」

 テオドールは、改札を入ってゆく家族を見えなくなるまで見送っていた。現れた迎えの自動車へと乗り込み、誰にも聞こえなくなったのを確認して口を開く。

「カミナ殿に、父さんが倒れた事は話したのか?」
「いえ……、しかし数ヶ月前に制度変更が行われた際、お伝えする夜会などの場を設ける事ができなかったのが一因かもしれないと、旦那様は……」
「あまり深く考えるな。カミナ殿はそうじゃないと言っていただろう?」
「ですが……」

 テオドールの父の体調は、去年から原因不明のめまいや動悸がおこるようになり、シャトレッド邸宅では無理をさせないよう、体力の使う視察や飲酒の多い夜会などは控えられていた。
 制度変更が行われる場合、伯爵はその土地の議員達と議会を開くが、財力貴族は貴族であっても参加権がなく、夜会などでのある程度の意思疎通を行う事が通例となっている。
 よって今回の件は「多くの税金を納めているにも関わらず意見を聞かないままカミナが不利な改革を行った為に逃げられた」と解釈ができる。

「何か一言でもあれば、違ったかもしれないと……」
「もういい」

 辺境貴族にとって財力貴族が出てゆく事は税金の減収を意味し、福祉や土地のインフラの整備などにも影響がでかねない。
 テオドールは思いつく限りの問題を想像してため息をついた。

「僕がどうにかするさ」
「……」

 使用人は何も答えなかった。それは伯爵としての仕事を、テオドールはまだ経験した事がないからにある。
 知識とプライドだけの伯爵など誰も認めず、お飾りにされる事が目に見えているからだ。
 しかしテオドールは、そうはなりたくなかった。
 ここに戻る前にシャトレッド領の問題を羅列しある程度の解決策も考えている。利権を欲しがる議員にどこまで戦えるのかは分からないが、このシャトレッド領をより豊かにするためにも、これは必要な事だと思うからだ。

 久しぶりに戻った実家は、少しだけ寂しい佇まいでテオドールを迎える。
 領民の為に経費をできるだけ減らし使用人もほぼ最低限の邸宅は、彩を加える植物や噴水は全て撤去され、庭は芝生にガーデンチェアが置かれているぐらいだ。
 テオドールは何もないその庭へ目もくれず即座に病床にいる父の元へと向かった。
 過労による原因不明の熱と止まらない咳の不眠が続き、元々ドクターにかかっていた父オキシ・シャトレッドだが一月前にドクターストップがかりそれは現在も継続している。

「おかえり、テオ」
「父さん……」

 オキシは、辛そうな体を起こし久しぶりに戻った息子を迎えた。顔色が良かったオキシだが、声を出した直後にまた咳がでて使用人に背中を摩ってもらっていた。

「無理しないで……」
「ありがとう。呼び戻して悪かった、今回は少しだけ手を貸して欲しい」
「聞いてるさ。僕が色々やってみるよ」
「あまり気負わなくていい。議員達は優秀だから、聞いているだけでも構わないぐらいだ。勉強もさせてもらいなさい」
「……わかった」

 オキシはやる気に満ち溢れたテオドールに苦笑する。父を休ませようと早々に部屋を出ようとしたテオへ、オキシはもう一度口を開いた。

「テオ。もしクレゾンと言う男がきたらすぐ私を呼びなさい」
「クレゾン?」
「あぁ、無視をしても良いぐらいだが、しつこいんだ。テオが相手にすべきじゃない」
「父さんは寝てて、もし来たら声はかける」
「あぁ、ありがとう」

 テオドールは初めて聞いた名だった。
 調べると外国人のハーフや差別を無くしたいと言う団体の代表らしくテオドールは首を傾げる。
 このシャトレッド領は、首都の中では外国人にかなり寛容な措置をとってきた土地であり、相応の支援も行なっている。周辺の伯爵達が受け入れない人々を受け入れ、労働人口を賄ってきた経緯もあり、それを実行してきた父が「相手にすべきでは無い」と言う事に違和感があった。
 クレゾンと言う男は、ジギリダス人とオウカ人のハーフらしく、テオドールの脳裏へアンズが呼び起こされる。
高校で見たいじめが自身の土地でも行われていないとは言えず、彼は一つの覚悟を胸に伯爵代理として執務室へと入った。

 伯爵代理としての執務が始まると、領地内のあらゆる役所から届けられた大量の書類の確認処理から始まり、土地の視察や催事への参加、毎週ある夜会など多忙な日々が続く。
 若くして伯爵代理となったテオドールは、視察へ赴いた土地でも喜ばれ歓迎されるが、反対に「歓迎」されているだけで、仕事相手として受け入れられているようには思えなかった。
 本来視察へゆけば、現地の人々の不満や要望などを聞く立場なのに、顔を合わせた人々は土地の良さを語るのみで何も問題を話してはくれない。
 問い詰めようとしても答えてもらえず、テオドールは、何も聞かないまま返されてしまった。
 観光だけに終わりそうな視察にウンザリしていたテオドールだが、ふと傍を見ると子供が数名がテオドールのことを遠目で見ていることに気づく。
 何かを言いたげな彼らは、対応しに行った執事へ手紙のようなものを渡して帰っていった。しかし自動車へ乗り込んでも執事はその手紙をテオドールへ渡さない。

「さっきの子供、僕に何かいいたげだったが」
「旦那様が倒れられたと聞いて励ましのお手紙をかいたそうです」
「父さん宛なのか?」
「はい」
「見せてくれ」
「しかしこれはーー」
「見せろ」

 憤るような声に執事はテオドールを睨みながらそれを渡した。封がされていない手紙には「伯爵様へ」とあどけない文字で宛先が書かれ、中身は「プルプレア連合の人がこわいです。たすけてください」とだけ書かれていた。
 プルプレア連合は、父が話していたクレゾンと言う男が代表を務めている、主にジギリタズ人の血が入った人々の助け合い連合だ。この組織この土地の代表議員と親密な関係にあり、彼らの意見はもう無視はできなくなっている。

 この手紙だけでは具体的に何があったのか分からないが、これは間違いなく「市民の声」でもあり、テオドールは執事を睨んだ。

「旦那様にむけてのものです」
「今は僕が伯爵だ」

 バトラーは表情を変えず、目を合わせようともしない。
 テオドールはその週の休日、バトラーの目を盗み一人で手紙を渡された街へと向かった。
 特に目的もなくプルプレア連合の本部へ向かう道中。通りがかった公園で大人同士が怒鳴り合う声が聞こえ、テオドールは息を潜めた。

「いい加減にしてくれ! 前もおもちゃを渡しただろ!!」
「うちは子供二人で苦しいんだ。純潔のオウカ人様、どうかお恵みをお与えくださいよ」
「くっ、もう関わらないでくれ」
「あら、差別ですか? この街の条例では差別は最低五万の罰金ですよ」
「差別はしていない。これは拒否だ」

 向かい合うのは二人の子供を連れた女性と、一人の子供を連れた男性だった。男性の子供はおもちゃを大切に抱えて震えている。

「そのおもちゃ、うちの子が『貸して欲しい』って言ったのに、なんで貸してくれないの?」
「だって、前のおもちゃも返してくれてないもん! これはだめ……」
「あらそうなの? ごめんなさい。どこにやったの?」
「わかんない」「なくした」
「え……」
「本当ごめんなさいねぇ、だからまた『仲良く』一緒に遊んで欲しいの」
「い、いや……」
「帰ろう」

 男性が子供を抱き上げ、守るように立ち去ろうとする。しかし女性はポケットからデバイスを取り出し、どこかに通信を飛ばしていた。

「もしもし? プルプレア連合ですか?」

 男性が思わず立ち止まり、絶句して振り返る。

「悪質な、差別をする方に出会いました。子供がとても辛そうで……えぇ、また事情を伺いーー」
「やめろ!」
「あら?」
「私達が何をした!」
「私達がジギリタズ人だから、『仲良く』してくれないんでしょう? なら連合に頼むしか……」

 男性は自身の子供からおもちゃを奪い取り、女性と子供達の足元へ投げた。泣き叫ぶ子供を抱えて、男性は逃げるように去ってゆく。
 おもちゃを拾った二人の子供は、嬉しそうに遊び始めた。

「一緒に遊んでもらえなくて残念だったわね」
「おやつも買って欲しかったー」

 現場を見ていたテオドールは、そのあまりの情景に言葉を失い、動くことができなかった。
 信じられないまま茫然と観察していると、数名の男性が現れてまるで事情を聞くようにメモをとっている。
 そこでも「罵声を浴びせられた」「悪質な扱いを受けた」「話ができる余地がなかった」など、まるで相手が悪いかのように証言しながらも心配する職員達に「慣れていますから」と締めくくる。
 見たもの聞いたものが信じられないまま、テオドールはフラフラとその場を離れた。
 差別を無くすことが正義だと考えていたテオドールは、その差別が利用されている事実が受け入れられず、頭が真っ白のまま繁華街へと戻ってゆく。
 人々の声がぼやけて聞こえる中、ふと目に入った玩具屋に先程の親子が見え我に帰った。
 目尻の赤い子供が、新たなおもちゃを選ぶ風景にテオドールは声をかけずにはいられない。

「……すみません」
「? どちらさん?」

 地元らしい返事だと思いテオドールは、何も考えず変装していたマスクとメガネを取り素性を晒した。
 突然領主の嫡男が現れ、男性はひっくり返って驚いたが、テオドールは彼の子供が選んだおもちゃを購入し、喫茶店で男性の話を聞くこととなる。

「プルプレア連合はこの区の議員や自警団を総括してる組織で、通報されたら最悪傭兵が家に押しかけてくるんです。下手に反抗したら、騎士団に報告されてどうなるか……」
「そんなことが……」
「普段は公園には行かないんです。あいつらと鉢合わせしたくないから。でも今日は久しぶりの休みでこの子が私と外で遊びたいって……。うちは母さんがこの子が小さい頃に亡くなってて父子家庭なのもあって、なかなか時間もとれないんです。だから私もうれしくて」
「……」

 テオドールは、胸が張り裂けそうな思いだった。謝って終わる問題とも思えず唇を噛む。

「シャトレッド家の人間として、僕は何をしてきたんだと後悔でいっぱいです。すみません」
「シャトレッド伯は、よくやってくれています」
「え……」
「シャドレット伯は、プルプレア連合から差別のレッテルを押し付けられ、クランリリー騎士団に連行されかけた市民の誤解を解き、彼らと共存ができるよううまく計らってくれています。貴方がたが居なければ、私のような市民はもうここに住むことはできなくなって居たでしょう」
「……」
「妻の眠るこの土地を、私は離れたくは無い。でもこの区からはもう私のような市民は減り続け、プルプレア連合の息のかかった人物ばかりが議員となる。どうしようもない。テオドール様、どうか我々のような市民にも平和に安全に暮らせる街を作って下さい……」
「パパ……」

 おもちゃで遊んでいた子供は、涙を堪える父を心配そうに見上げていた。その様子にテオドールは大きく深呼吸する。
 何ができるかまだ上手く言葉にはできない。しかし与えられた権利を振り翳す人々がいる事実と戦う意思を固めた。

「シャトレッド家の名の下に、貴方がたが安全に暮らせるよう努力致します」
「ありがとう。テオドール様。シャトレッド家の方々は我々の希望です」

 少しだけ明るくなった男性の表情に、子供も嬉しそうに笑っていた。
 テオドールは、その後早々に帰宅しプルプレア連合の情報を調べ尽くしてゆく。
 父の書棚の隅に隠されていたその資料は、プルプレア連合がシャトレッド領のあらゆる場所に根を張り、議員排出を進めていて、領の予算の半分以上をその支援に使われている事を知る。
 そのおかげか、領内の公共施設の利用料金は徐々に上がり他の領地の倍以上の価格となっていた。
 テオドールの父オキシは、そのばら撒いた富を回収するため、議員の給与を下げたり、傭兵を雇う際に税金を取るなど努力はしているが、ギリギリなのは変わらず、本来の領主の勤めである土地の開拓がほぼ停止している状況だった。
 テオドールは早速、プルプレア連合に流れている支援金を止めるため、議会で話し合う資料をまとめる。

「……」
「何が文句あるか?」

 資料の添削をしていたバトラー、エドガーは、何も言わずただ顔をしかめるばかりだ。

「あまりよくはありませんな」
「どう言う意味だ?」
「権利は守られるべきものです。彼らはそもそも立場が違う、まず足元を同じにしなければならない」
「それこそ差別だとなぜ気づかない。生まれの違いで土台を要求するのは権利の乱用だ」
「なら、彼らを雇う組織がどこにあるのです?」
「雇わないだろうな。差別されていると言えばなんでも思い通りになるのだから、雇われて下手に出る必要もない」
「誤解ですな」
「そもそも金がなくなれば働くしか無い。つまり金が無くならなければ働きたいとも思わない。土台が同じとはそう言う意味じゃ無いのか?」
「理想論です」
「ならいくらでも語ってやるよ。金が配られている時点でそれは『特権』なんだ。僕はそれを排除して市民を守る」
「……」
「お前はあちら側だろう? 僕を傀儡化したかったみたいだが、残念だったな」
「私は、テオドール様の御身を案じているだけです」
「お前は父さんのお気に入りだから解雇はしない。僕が戦う様をそこで見ておけ」
「……その御心のままに」

 素直に頭を下げるバトラーに、テオドールは不気味さすら感じた。妨害しているような態度を見せながら、その身を按じると言うのも意味がわからないからだ。
 しかしこのバトラーが、オキシの横で何十年と支えていたのも事実でもある。

 複雑な心境のまま、テオドールは初めて参加する議会で、自身がまとめた資料を配布し議会にて説明する。
 およそ十数名の議員達は、ざわつき目配せして他の議員の顔色を窺っているようにも見えた。

「このような改革が行われれば、この区の民に飢えるものが出てくるでしょう。反対致します」
「それはあり得ない。この区には破格で食事を提供する施設がある。そしてプルプレア連合にはそれを払うだけの費用が出されているはずだ。使わない市民がいるのなら、ただの広報不足では?」
「……っ!」
「しかし、そもそも心が豊かでなければ働いて幸せを感じることもできないでしょう。まずはケアから始めるべきです」
「そこまで傷ついているのなら、まずは病院へ行くべきだ。連合にもそのための費用は既に出ている。また特定の病院には、社会復帰を斡旋する雇用システムもあったはずだ、既にサポートができる体制は整っている」
「……」
「連合連合ともいわれますが、全ての組員に支援を行えば流石に現在の財政ではーー」
「連合に出ている予算と人数から、一人当たりの金額を計算したがーー」
「っ!」
「医療費を差し引いても一人当たり1か月50万、これはオウカにおける首都の会社員の収入に相当する。この土地では多いぐらいだ。領内には数万程度でも住める物件が数多ある」
「住んだところで差別されては住めません」
「差別されない態度を取ればいいだけでは?」

 議会がまるで凍りついたように静まり返り、議員たちは呆然としている。テオドールは彼らを冷ややかな目で見据え議決を取った。

「賛成ならば起立、反対ならば着席を」

 議員達およそ12名のうち5名が、テオドールの改革に賛成する。立ち上がった彼らは味方だと判断し、テオドールは口を開いた。

「桜花・シャトレッド領。伯爵の権限において、今回の議案を可決させる」

 反対票が過半数を占めようとも、土地の領主には議員の多数決決議を無視する権限がある。それは、オウカの国において他国からの侵略を防ぐ防波堤として機能する為だ。
 反対した議員達は顔を顰め彼らはテオドールに挨拶をしないまま帰ってゆく。賛成に立ち上がった議員は苦笑しながら、テオドールを称賛してくれた。

「プルプレア連合の悪質性を掴んでおられるとは、私は貴方を誤解していたようです」
「僕も些細なきっかけがなければ気づけなかった。彼らは大きくなりすぎたんだ。少し縮小させる」
「応援致します。どうか御身にお気をつけて」
「……?」

 この議員の最後の言葉の意味を、テオドールは早々に知ることとなる。
 議会が明けてから数日後。シャトレッド領の駅前には大声をあげる行列が現れ、「差別するな! 悪徳伯爵、シャトレッド」などと言う弾幕を掲げる運動がはじまる。
 またその様子はローカルテレビにも報道され、シャトレッド家がまるで迫害しているような印象を受けるものでもあった。

「なるほど」
「まだ引き返せます」
「黙れ。見ていろ」

 バトラーは、テオドールを睨みつけ何ごともなかったかのように一礼した。
 中規模程度の抗議パレードが開催された後、今度はシャトレッドの屋敷の前に弾幕を掲げる人々が現れ始める。
 テオドールが視察へ向かえば罵声を浴びせ、ゴミも投げてくるが彼は毅然として伯爵の役目をこなしていた。

 多忙な日常をこなしてゆく中で、テオドールの父、オキシの容体は徐々に悪化してゆく。熱が出て意識がなかなか戻らない父は、過労だけではない可能性もあり、テオドールは首都の病院へ向かう事を薦めた。

「いいんだ。テオ、ここは我が家の土地だ……私はここにいるよ」
「……父さん」
「あれほど何もしなくていいと言ったのに、テオは賢いな」
「……僕は後悔はしません。シャトレッドの人間ですから」
「そうか。ならもう自由にしなさい……」
「ありがとう、父さん」

 父はそう言い残し、一度意識を落とした。
 なかなか良くならない父を心配するテオドールだが、それ以上に日常が多忙を極め、まるで風が過ぎ去るように日々が始まり終わってゆく。
 その中でも、以前出会った親子から手紙が届き、公園で遊べるようになったと書かれていたときはとても嬉しく感じていた。
 テオドールはあの議会の後、空いた予算で見回り団体をつくり、公園などのコミュニティスペースでトラブルがないかを見張る組織を編成した。
 プルプレア連合からだけでなく、そこで行われたやり取りが第三者目線で判断できるように『公平』を建前に監視する。すると、誰かいるだけで連合の組員とのトラブルはみるみるうちに減り、公園には楽しそうに遊ぶ子供達の声が聞こえるようになっていた。
 間違ってはいないと確信を得る中、ある日一人の男が、シャトレッド家を訪ねてくる。
 アーノルド・クレゾンというその男は、プルプレア連合の代表を務め、今回は抗議に現れたらしい。

「お忙しい中お時間をとっていただき感謝します伯爵。早速ですが、我団体へ加入する組員が、公園や街へ安全に出かけられなくなっており、お話を聞いていただければと」
「聞かせてくれ」
「まずは公園。見ない顔のオウカ人が公園を監視していてみな恐怖を感じております。早々に対応をお願いしたく……」
「公共施設でのトラブルを防ぐための監視員だ。対応の必要はない」
「恐怖があるのですが……」
「彼らは見るだけだ」
「……では次に、収入があまりに少なく子供が飢えかけております。支援をーー」
「議会でも話したが、必要な生活費は既に配っている。あなた方こそ、彼らを保護するためにいるのだから努力されてはどうか」

 睨みつけてくるクレゾンに、テオドールは睨み返してゆく。

「我が連合の拠点としている建物ですが、過去の施設から流用されており築年数に限界が来ております。建て替えを……」
「かの施設は貴殿らが、我がシャトレッド家から購入したもの。我が家に建て替えを要求する権利はない。それに去年一昨年の採算によれば、我が領地が出した支援金のおよそ3割に未申告分があった。その予算で建て替えもできるだろう。使ったらいい」

 呆然としているクレゾンに、テオドールは怯む事は無かった。折れる気配のない彼に、クレゾンは声をあげて笑う。

「そんなにも我々を差別するんでしたら、もう力ずくでやるしかありませんなぁ」
「差別ではない。脅迫なら相応の対応をとらせてもらうが?」
「はっはっは、冗談ですわ。こちらが市民の署名ですが受け取ってください」

 どさっと置かれたのは紙の束だ。似たような筆跡が並び、違う名前でかかれていて違和感があり嫌な予感もする。

「では本日は失礼します。またよろしく」

 クレゾンは振り返ることもなく去っていった。そこから数週間は何ごともなく平和な日常が続いていたが、ある日シャトレッド領のとある地域で不審火が起こり、小さな住宅街が全焼すると言う事故が起こる。
 これをうけてテオドールは急遽救援チームを組織して物資の運搬を始めた。

「こんな火の手のない場所で何故……?」
「この辺りはどこも建物が古く築年数もかなり経った建築物が多かったのでしょう」
「そうか。いや、そんな事よりもいまは住民の生活の確保が重要だ。隣町に避難できる施設は?」
「ありますが、これ程の人数はとても……」

 小さな村といえど十数世帯の人数をみれば100名、多ければ500名を超えてくる。新たな場所を作る必要があり、テオドールは地図を開いた。

「この広い公園へ、短期間の避難施設を建築する」
「新たに建築ですか? それは予算が足りない可能性が……」
「支援金を削減した分がまだ残っていた筈だ。足りない分は我が家が運営している不動産を手放して補填する」
「そんな身を切る政策を……?」
「足りないのは今月だけだ。来月には立て替えさせてもらう」

 テオドールは、早速新たな避難施設の建築の手続きを行い、その資金を補填するためシャトレッド家が個人で所有していた駅前のマンションを売りに出した。
 立地がよく人気でもあったそのマンションはすぐに買い手がつき、焼けた隣町へ仮設住宅が建設される。
 市民達が涙を流して感謝する中、テレビで流れる報道は、村が焼けたのは伯爵が執政を怠り、クランリリー騎士団の協力を仰げなかったからだと批判が相次ぎ、ワイドショーでは早期オキシ伯爵の復帰が望まれるとされていた。

 ローカルニュースのみだった報道が徐々に全国ニュースにも乗るようになり、シャトレッド領のことはオウカ国の全土へ行き渡る形で拡散されてゆく。
 新聞には「若き伯爵。失敗か?」との見出しが書かれたり、「ジギリダス人支援組織、またも差別をうける」などと週刊紙やワイドショーなどで取り上げられた。それらのニュースは、当然ヴァルサスとアンズの目にも止まり、クラスでも話題になる。

「あいつ、学校だとアンズと仲良くしてたじゃん。差別主義者になったのか?」
「本当は根っからそうだったんじゃねーの? 人当たりよかったけどさ」

「おい!」

 ヴァルサスが後ろから声をかけると話していた二人は「げっ」と声をあげて黙る。ヴァルサスは苛立ちながら机に座り、一人でデバイスを触っていた。

「ねぇ……」

 後ろに座っていたアンズは、ヴァルサスの態度に不安な表情を見せ恐る恐る声をかける。

「テオ君。どうなってるんだろ……」
「しらねぇよ。なんか事情があるんだろ」
「そう思う?」
「貴族って何考えてるかわからねーしさ……俺らは待つことしか出来ねぇよ」
「そうだね……」

 ヴァルサスは、以前テオドールが話していた「アンズのような人々を救いたい」と言う彼の言葉を信じたかった。

 二人がテオドールの過去の言葉と真逆の報道に不安を得る中、シャトレッド領では連日の報道も相まって、かつてテオドールの執政に賛同していた市民までもが抗議活動を起こすようになっていた。
 それは町の公園へ避難施設を突然建設したことで元々住んでいた市民達の不満を買い、また避難施設のある土地で空き巣や不審者などが相次いで起こり始めたことから、住民達の怒りの矛先が避難民とシャトレッド家に向いたからにある。

「クランリリー騎士団に対応を要請できるか?」
「火事の調査で人数を回しているので、これ以上は無理かと」
「……」

 現在、シャトレッド領に来ているクランリリー騎士団の騎士の殆どは、発生した火事の調査にあたっている。町の見回りを行う為には、さらに傭兵などを雇って人を増やす必要があるが、元々採算がギリギリだったシャトレッド領で回せる資金はごく僅かしかない。

「僕と屋敷の護衛を減らして町の見回りを行おう」
「それは御身を危険に晒します」
「こんな伯爵、だれも狙わないさ。気をつける」

 バトラーの労りの言葉は珍しく思わず軽くあしらってしまう。妨害してくるかに見えた彼は、テオドールが本格的に指揮を取り出してから執務への意見もなくなっていったからだ。
 今一つ真意が掴めない人々に戸惑う中で、ふとテオドールは騒がしい屋敷の外へと目を向ける。
 窓の外には、以前数名しか居なかった抗議グループが十数名まで増えており、テオドールは見ないようにカーテンを閉じた。

 窓を開ければ聞こえてくる否定の言葉の羅列に、まるで自分が間違っているような気分になる。高校にいた頃はテニスコートで応援のエールを受けていたのが懐かしく。
自身が徐々に疲弊している事を受け入れたくなかった。
 それでもここへ戻ってきたばかりの頃、泣きながら助けを求めてきた親子が脳裏に焼き付いている。
 どれほど否定されようとも、批判を受けようとも、ここで暮らしたいと願う市民のため、この土地を平和にしなければならない。

 テオドールは、聞こえてくる罵声を無視するように更に改革を行なってゆく。
 支援金の曖昧だった用途を厳格にしコストを極限まで削って改革案をまとめ再びそれを議会へ提出しようとした時、あの男がもう一度姿をみせた。

 アーノルド・クレゾンは、両手に署名らしき紙束を抱え後ろに議員を連れて現れる。

「ご機嫌麗しゅう。伯爵殿」
「署名の提出ならば、そこに置いておいてくれ。今夜目を通しておく」
「おやおや、ご冗談を市民の言葉を聞いていただけないのでしょうか?」
「なんだ?」
「金でお困りなのでしょう。私のプルプレア連合は、助け合いの組織です。故に寛容な資産家のご紹介も可能ですよ」
「生憎、借金に頼るほど我が家は困窮してはいない。それよりも先週、プルプレア連合の組合員が空き巣と火事場泥棒を行なったとして我が家の自警団に検挙された。これはどう説明してくれる?」
「彼らは常に満ち足りず、愛や優しさに飢えています。それゆえ人に危害を加えてしまうことはもはや本能なのです。どうかお許しを」
「彼らの為に貴殿らが存在するのではないのか?」
「我々の支援にも限界があるのです。ここ最近は支援金も減らされ十分な支援もできなくなったもので」

 テオドールは、表には出さずとも舌打ちをしたい気分だった。父が話さなくていいと言っていた言葉の意味が、徐々に理解できてくる。

「これ以上困窮すれば、不満を溜めた組員達が暴動をおこしても可笑しくはありませんなぁ」
「貴殿は止めないのか?」
「こうして定期的伯爵殿と会い。『ガス抜き』をしているのです。オキシ殿はまだよくわかっておられましたが」
「僕は父さん程甘くはない。ルールを守らないなら相応の対応をさせて頂く」
「なるほど。よく分かりました。組員にもそう伝えておきましょう、では本日は失礼致します」

 クレゾンは、署名の入った紙束を置きそのまま去っていった。署名に目を通すと、署名者の居住地がシャトレッド領となるコスモス町ではなく、レンゲ町やコノハナ町。またローズマリー領らしき地区もありため息がでる。

「テオドール様。奥様がたまには連絡をよこして欲しいと連絡が」
「母さんが?」
「首都に戻られないかとの言伝です」
「僕が居なくなったら誰がこの土地を収めるんだ?」
「旦那様のご体調が回復傾向にありますので……」

 テオドールはバトラーとの話を切り上げ、早々に父の部屋へと向かう。多忙で殆ど顔を合わせられなかった父は、ドクターの前で起き上がれるようになっていた。

「心配かけたね。テオ」
「……父さん。よかった」
「良くなれば来週には復帰できるそうだ。苦労をかけたな」
「いえ、でも僕はこの仕事をやり切りたいと考えていて……」
「大丈夫だ。それよりも母さんが心配している。メディアが皆、テオのことを取り上げているとね」
「……」
「一度、首都に戻って休息してくるといい。今すぐ全てをやる必要はないのだから」
「でも父さん。僕はーー」
「政治は何よりもバランスが大切なんだ。右に寄りすぎても左に寄りすぎてもいけない。毅然としているのは重要だが……周りが見えなくなっては民の声も聞こえなくなってしまう」
「……っ!」
「一度休みなさい。母さんも待っているから」

 優しい父の言葉にテオドールは上手く返事ができなかった。
 それはテオドール自身が今のこのシャトレッド領の状態に行き詰まりを感じていて、これ以上問題が大きくなってゆけば、国に統治能力を問われると言う自体に陥りかねないからだ。

「……クレゾンは」
「奴は私に変われば多少は大人しくなる」

 この言葉でテオドールは自身のさまざまな憶測が繋がっていくのがわかる。
 思えば全ての始まりは、アーノルド・クレゾンが屋敷に来た時からだ。火事が起こり、住民を移動させたが、その住民の半数はプルプレア連合の組員であり、テオドールは不審にも思っていた。
 火事からの復興のため、公園にいた監視員を雇う余裕はなくなり騎士団も調査をせざる得ず、悪化する治安。治安が悪化すれば当然、住民の不満も溜まる。以前のように生活が出来ないと、支持派が掌を返してゆく。
 ひろがる抗議活動を、伯爵家が止めることができず、議員達はみな住民の声を聞かざる得ない。

「……わかった」
「母さんには、良くなったと伝えてくれ」
「うん……ごめん」

 テオドールは悔しくて唇を噛み締めていた。プライドを持って、誇りを持ってやれると思ったのに、信条を貫くことがこれ程困難とは思いもよらなかったからだ。

 およそ半年ほど、伯爵代理を務めたテオドールは、久しぶりに首都の高校へと戻ってくる。
 数ヶ月ぶりに戻ってきた有名人に生徒たちは驚くが、メディアでの報道から彼に向ける意識は変わっていた。
 平民の高校に通う庶民的な貴族と言う印象が、いつのまにか差別を行い土地の治安を壊した嫡子と言う事実に書き換えられ、今更何をしに来たんだと言われているように思える。

「テオ!」

 机に突っ伏していたテオドールは、響いた声に顔を挙げた。
 現れたヴァルサスは嬉しそうに向かいへ座り嬉しそうに笑う。テオドールはその時少し救われたように思えた。

「シャトレッド領やばいじゃん大変だな」
「頑張ったんだけどさ……」
「ふーん。ま、初めてなら仕方ないんじゃね」

 昼休み、誰もいない広場でヴァルサスは久しぶりにテオドールと昼を済ませていた。数ヶ月ぶりに戻ってきたテオドールは、少し虚な目をしていて心身が憔悴しているようにも見える。

「初めてで、済まされるのかな……」
「済まねぇの?」
「……わかんない」
「うちの父さんは、政治は人が死なないなら別になんでもいいって言うけど」
「……ヴァルの父さんは、宮廷騎士だっけ?」
「おう、なんか今度マグノリア行くっつってたな。テオのとこはどうだった?」

 テオドールの政治で人が死ぬことはなかった。火事はあったが救助も間に合い住民達のほとんどが軽傷だったからだ。

「……シャトレッド領は、困ってる人が沢山居たんだ。僕は皆に平和に暮らして欲しかったのに、上手くいかなくてさ」
「上手くいかない?」
「助ければ助けるほど、みんなが不満を溜めてしまうんだ。あり地獄みたいに、底が見えない」
「それは、助け方の問題なんじゃね……」

 テオドールの息が詰まり、思わずヴァルサスをみた。彼は少し戸惑いながら続ける。

「ちゃんと助けて欲しい人の話きかねぇと、余計な事になるだろ」
「……そう、だね」
「まぁ、まだ早かったんじゃね。学生だしーー」
「僕は、妥協したつもりなってなかった! 全力だったんだ! でも……」

 テオドールの怒鳴り声にヴァルサスは絶句し、通りかかった生徒たちがこちらを向く。

「でも、テレビやべーじゃん……」
「……っ!」

 脳裏によぎる理不尽な報道。ヴァルサスはそこで何が起こっていたのか、現場を知らない。オウカ町に住む人々は、「そこ」には住んでいない。
 その現実を、テオドールは思い知らされた。

「そうだね……」
「ちゃんと領民の話聞いた方がいいぜ?」

 ヴァルサスに悪意はない。彼が自身の思った言葉を紡いでいるだけだ。
 そこに正義も悪もなく、愚直な一市民の意見でもある。しかし、その時のテオドールにとってはあまりにも残酷で受け入れ難かった。

「しばらくこっちにいんの?」
「うん……」
「ならアンズ誘ってカラオケ行こうぜ。久しぶりに下手な歌聞かせてくれよ」

 テオドールは、絶望した感情を抑え込んでいた。ここは世界が違うと言い聞かせると、何故かふっと気持ちが軽くなる。

「ごめん。今日は帰るよ、久しぶりで疲れた」
「そっか」

 王都は嫌気がさすほどに静かで平和だ。
 何もかもが満ち足りていて、資金のこと、治安の事などを気にする必要もない。
 憎くすらなるほどにここには潤沢に資源がありテオドールは再びため息をついた。

 テオドールが首都に戻り1ヶ月ほどが立った頃、シャトレッド領に政治資金横領の報道がでる。
 それはかつてテオドールが、避難施設を建設した際、資産を建て替えて税金から回収した資金が「税金を懐に入れた」としてメディアにリークされたからだ。
 また、これによって市民達はシャトレッド家への信頼を失い、その筆頭としてアーノルド・クレゾンがシャトレッド家の屋敷へと現れる。

「ここを明け渡す用意はできましたかな。シャトレッド伯」
「テオドールにその件を話さなかったのは、助かったよアーノルド」

 アーノルド・クレゾンは、テオドールが首都へ戻った後、再びシャトレッド領へと足を運んでいた。
 杖をつくオキシ・シャトレッドは、クレゾンを客間へ通す事なく玄関で迎える。

「話したところで『理解』を得られると思っていませんでしたからな。しかし市民の不満はもう限界です。ご隠居された方がよろしいかと」
「生憎、私もこの土地に思い入れが大きいのでね。境界が近くあらゆる貴族に見捨てられていたこの土地をここまで発展させたプライドがある」

 オキシ・シャトレッドがこの土地を引き継ぐ前。戦後間も無いオウカ国は、都市部以外の地区は見捨てられ、農村はギリギリの生活を送っていた。
 インフラが間に合わないまま、食糧も行き届かず住民は自給自足で飢えを凌ぐ日々だったが、オキシの父が戦争がきっかけで事業で成功し、人々を救いたいと言う正義感のもとで購入した。
 以降インフラを整え、列車を引き込み、流通を安定させ、コスモス町はここまで発展したが、発展して間もない土地は、隣の領で住めなくなった人々が流れ着くようになり人々の生活を蝕むように侵略してきた。
 それはここが、首都にありながらも目立たず広く、そして騎士団の目も届きにくい場所でもあるからだ。

「住民はもうあなた方の退陣を望んでいる。すでに金額は提示しております。横領の責任をとって退陣されるならまだ人として生きてゆけますよ」
「競売にすら出していない土地を買いたいとは、無礼だぞ。アーノルド・クレゾン」
「久しぶりの威勢ですな。シャトレッド伯」

 睨み合いを続ける二人だが、先に身を翻したのはクレゾンだった。

「しょうがないですな。少し勿体ないが……」
「……っ! 旦那様!!」

 バトラーがオキシの手を引いた直後。正面の扉が開き、火炎瓶のようなものが投げ入れられた。
 バトラーは即座にオキシを伏せさせると、瓶がエントランスの正面階段で粉砕し、炎が一気に燃え広がる。

「アーノルド!!」
「では、ご機嫌よう」

 走って出てゆくアーノルドは、「家事だー!」と叫び、さらに数本の瓶が庭へ、屋内へと投げ入れられてゆく。
 経費が削られ、必要最低限だった使用人は、火が燃え広がるまで炎に気付かず、またテオドールによって警備も数名しかいなかった屋敷は、その火の手に抵抗もできなかった。そして、自身の病気がようやく快方に向かっていたオキシだったが、有毒な煙に巻かれて呼吸もままならない。
 バトラー・エドガーはオキシを担ぎながら必死に出口を探すが、走る体力はもうオキシに残されていなかった。

「だから、テオと共にゆけとあれほど言ったんだ」
「できませぬ。あなた方シャトレッド家のおかげで、私達がどれほど救われたか。サフィニア領を追いやられた我らを受け入れてくださったあなた方でなければ、ここを収めることはできなかった」
「治めることは、できなかったよ……済まない。私は、人々が皆。君のように純真であると信じたかった。テオにもそう言っていたように」
「私は、テオドール様の妨害しかできませんでした。御身の安全を気遣うばかりに……」
「息子をよく支えてくれた。これからもそうしてほしいが……」
「お一人では行かせませぬ。旦那様……」

 紅く光る屋敷は、クランリリー騎士団管轄の消防団が到着するまでに隅々まで炎が行き渡り、全焼する。
 アーノルド・クレゾンは、暴動を起こしたという市民達を宥めるそぶりを行ないながら、オキシの無理心中の可能性を語り、その事件はのちに全国ニュースで報道された。

 その知らせを聞いたテオドールと彼の母は、即座に自領地へ趣き、変わり果てた屋敷と対面する。消失した現場に残されていたのは、大火傷を負った僅かな使用人達と父とバトラー・エドガーの遺体だった。

 シャトレッド家は家を無くし、民の反乱が起こったことで統治能力はないと判断され、国王によって土地の強制買取が行われた。
 伯爵から平民へと没落したテオドールを人々は当然だと罵り、差別はあってはならない事だとワイドショーで晒される。
 

「伯爵家が燃えた……?」

 美しい花が咲き誇る庭園で、その年17歳になった王子は、自身のバトラーから差し出された情報誌を見て驚いていた。
 それまで連日差別的な土地であると報道され、批判されていた.そこで伯爵家が民によって淘汰されたと書かれている。

「どう見られますか?」
「……『負け』かな」

 セオ・ツバキは、熱心に読み込む王子へ新たなお茶を注ぐ。
 貴族達の中では、シャトレッド領がとある市民団体に侵略されていることは周知の事実であり、危険性が高いことが共有されていたからだ。
 貧困や弱者を気取る相手には、より毅然と向き合い、何を言われても対等に向き合うことが最適だが、振り切れば力のない人々を切り捨てる事になりかねず、対応しきれない貴族達も数多いる。

「何故マグノリアを見本にしないのでしょう?」
「あそこは特別だよ。資源が豊富だからさ」

 弱者救済という意味で、マグノリア領は成功例だとも言われている。
 共産的な考えのもと、公爵家以外の貴族達は、重税を強いられながら平民との生活は変わらず、ただ義務のもとでその役目を待つ真っ当している。
 代わりに上位の貴族達が治める土地には必ず観光名所が存在し、さらに隣国ガーデニアの観光客による莫大な収入もあることから、人々へ資源がいきわたり協賛的な社会が実現されている。
 しかしマグノリア領もここへ行きつくまでに、様々な利権の奪い合いが発生し血を流してきた経緯があり、古より続く公爵家の政治的な経験の手腕によって、位の格差はあっても生活の格差はほとんどなくなっていた。
 そんな公爵家が何年もかけてようやく完成させた治世を伯爵家がやるのは無理があり、シャトレッド家は理想を求めて潰されたとも言える。

「伯爵クラスでのこのようなトラブルは日常茶飯事ですが、何故殿下はシャトレッド領にご興味を?」
「伯爵代理が僕と年が近くて、どんな政治するんだろうって興味が湧いたんだ。改革も大胆で参考になると思ってたけど……残念」
「なら殿下ならばどう統治されますか?」
「僕?」

 キリヤナギ・オウカは、丁寧に情報誌を畳んでゆく。広い庭園を見据え彼は小さく口を開いた。

「実際に統治することになってから考えるよ」
「未来永劫ないのでは」

 王は国を納めるもので土地を納めるものではない。土地を持つ人々を束ね、国家を存続してゆくことこそが頂点に立つ者の使命だからだ。

「僕が土地を買うかもしれないし?」

 セオが度し難い表情で見てきてキリヤナギは戸惑っていた。
 少しだけ読んだ情報誌には、シャトレッド伯爵代理が高校生であることも書かれており、彼は貴重な学生時代を潰してでも土地を守りたかったと言う意思が伝わってくる。
 また市民にとっては、差別的な伯爵家が淘汰されたと言うニュースだが、王子を含めた貴族からみると10代の若いの貴族が政治戦争に敗北したニュースでもあり、貴族であるキリヤナギにとっては酷く残酷な結末にも思えた。

「間も無く会談のお時間です。ご準備をーー」
「ぇー、昨日も会ったじゃん」
「昨日は昨日、今日は今日で違う方です。お茶の時間を捩じ込んだのですから頑張って下さい」

 キリヤナギは、ウンザリするように席を立ってゆく。
 人々のために尽くした伯爵家はかならずしも報われるわけではないと、キリヤナギはテオドールへ同情もしていた。

 シャトレッド領の事が報じられ、ヴァルサスとアンズは一面を飾るその見出しに動揺が隠せなかった。
 テオドールは当たり前のように高校には現れず、今日も授業が始まり淡々と時間が過ぎてゆく。テニス部に聞いても誰もテオドールの事は誰も聞いておらず、彼の現状は誰も知る由もなかった

「テオ君と何を話せばいいかわかんない……」

 ヴァルサスもアンズと同じだった。
 世間は起こるべくして起こり、また平民が貴族に勝ったとされ権利が保障されていると湧いている。
 伯爵を倒せば悪政も改善できるとも言われるが、本当にそうだったのか信じたくない気持ちが強かった。

「わかんねぇ……」
「ヴァルサス君?」
「聞いてみるしかないだろ」

 ヴァルサスは、アンズと共に放課後、うっすらと聞いていたコノハナ町のマンションへと向かった。
 テオドールが住んでいるマンションは閑散としていたが、エントランスにはコンシェルジュがおり、彼らは確認の為一度シャトレッド家へと連絡をとって二人を中へ通してくれた。
 ロビーで待って欲しいというテオドールの意思に応え、二人はマンションのロビーにて彼を待つ。

「何しにきたんだ……」
「テオ君。突然来て……ごめんなさい。でもどうしても心配になっちゃったの。辛い事があったなら、何が力になれるんじゃないかって」
「テオ、顔色わるいぜ……? 当たり前か……」
「……二人の気遣いは嬉しい。でもしばらくそっとしておいて欲しいんだ。話したい事は何も無いから」
「テオ君……」
「なんだよそれ、お前そんな奴だったか?」
「僕は僕のままだよ。ヴァル、僕のことを考えてくれるなら放っておいて欲しい……」
「……向こうの領地で何があったんだよ。会話になってねぇぞ」
「僕が話したくないって言ってるんだ! なんで聞いてくれないんだよ!!」

 思わず怒鳴ってきた彼に、アンズとヴァルサスは息を飲んだ。テオドールもハッとしたのか後悔したように背を向ける。

「悪い。今は何もかもぐちゃぐちゃで整理がついてないんだ」
「話聞いてないのはどっちだよ。お前、ずっとそうだったから今の結果があるんじゃねーのか?」
「な……」
「ヴァルサス?!」
「こっちは何があったか、何でそうなったのか聞きに来ただけだぜ。それでも話したくないってそもそも対話する気もねーじゃん。そういうところだろ!」
「黙れ!!」
「ーっ!」
「お前ら平民に何がわかる!! 周りに流されてばかりのお前らに、僕の苦悩がわかってたまるか!!」
「テオ君……」
「父さんは偉大だった!! 僕だって正しかった筈なんだ!! 何でそれを何も知らない奴に否定されないといけない……何も見てない癖に!!」
「知らないに決まってんだろうが!! 話さないのはお前ら貴族だろ!!」
「知る努力すらしない平民無勢が!!」

 ここでテオドールに付き添っていた使用人が止めに入り、口論は終わりを告げた。頭に血が上った事を反省したテオドールは、ヴァルサスを睨んで踵返す。

「もう、僕の前に現れないでくれ。僕に構うな……」
「……ちっ、アンズ。帰るぜ」
「ヴァルサス……。テオ君、ごめんなさい。またお見舞いに……」
「2度と、来ないでくれ……」

 テオドールはそう言って、ヴァルサスとアンズの前から去っていった。
 数日後には「梅の木高校」からも転校し、どこの高校へ行ったのか誰も知ることはない。
 またアンズもテオドールの転校によってイジメが再発し、ヴァルサスは彼女を必死に守り切ろうとしたが、女子による女子へのいじめに男子が介入するのも限界があり彼女もまた別の高校へ転校していった。
 たった3年間の高校生活はヴァルサスにとっては波乱であり、卒業時には進学を迷うほど疲れ切ってはいたが、父と母の勧めで大学を受験する。
 友人がほぼ居なくなり勉強しかやる事がなかったヴァルサスは、受かる気があまりなかった難関校、王立桜花大学へ受かってしまったのだ。
 いっそ落ちてしまえば滑り止めとして平民ばかりの大学にいけたのに、宮廷騎士と言う家柄を考慮されその信頼から狭き門を突破してしまった。
 もう貴族には関わりたくないのに貴族ばかりの大学に来てしまったヴァルサスは、これから続く4年間をどう過ごすか憂鬱でもあったが、入学式にて騎士の護衛を連れて現れた生徒に目線を取られた。
 オウカの文化に寄せた衣服を着る彼は、他の生徒に道を開けられながら歩き、ヴァルサスは思わず釘付けとなってしまう。
 このオウカ国の最高位の貴族であり、国を継ぐたった1人の王子がそこにいたからだ。
 しかしその表情はまるで感情がないように凍りつき、人々が見えないように講堂へと消えてゆく。
 集まる貴族達をまるで居ないようにあしらう様は、「話しかけるな」と言わんばかりの態度で、ヴァルサスも真っ白になって硬直していた。しかしそれでも、容姿や成績などのウワサを立てられていて、流石王家と言わざる得なかった。
 初日から目立っていた王子だが、入学して数日で姿が見えなくなり、王子は幻のだったのではと噂が立つ。
 生徒たちの中には休学していると言う話も流れ、真実は誰も知らずにいたが、夏の長期休講が明けたその日、王子はひっそりと姿を見せた。
 騎士を連れず、目立たないように工夫している王子だが、その気高く気品に溢れた雰囲気が隠せておらず、皆は距離置きながら肩を並べて授業を受ける。だが、時々彼はふらついたり授業中に居眠りをしては、退出、早退などを繰り返していた。
 本来なら注意するはずの教授がそんな王子の態度を容認しているのは、おそらくそれを周知しているからで、生徒達には王子が体調を崩しているのではないかと小さな噂も立ち、ますます彼に話しかけようとする生徒はいなくなっていった。
 そんな皆が遠目で見るだけの王子にヴァルサスは目をつける。
 大学は、既にどの貴族の派閥につくか、選挙でどうなるかの話題で持ちきりだった。周りではマグノリア公爵家に目をつけられた生徒が退学して話題になり、公爵家に逆らうべきではないと知らしめられる。
 校則でも貴族達の権力は縛れないと思うと、尚更貴族が嫌になりやはり関わりたくないと思うが、その派閥戦争から離れる形で王子はたった1人だった。
 授業にきても全日は受けれず、居眠りをしたり早退ばかりを繰り返す彼は、おそらく出席が足りず単位などで困っている。
 ここで王子に恩をうれば、最高位のヒエラルキーの傘に守られることになり、今度こそ平和に楽しく大学生活を送れるとヴァルサスは確信を持った。そうして彼は、2回生になる頃に意思を固めた。この貴重な大学生ライフを勉強だけで終わらせたくはないと願ったヴァルサスは、オリエンテーションの日程が終わった後、彼の後ろの席に座った。
 
「王子、生徒会長候補と知り合い?」

 振り返った彼の目は、とても驚き希望に満ち溢れた表情をしていた。

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