これは3年前の出来事だった。
ジギリダス国境沿い、東国(あずまこく)に面した緩衝地帯にて、泥だらけの衣服に身を包む男がいる。彼の胸には銀髪の少女がおり、彼女もまた息を絶え絶えにして体重を預けていた。
男と少女は、もう限界だった。
最後に立ち寄ろうとしていた村は、追手に焼け野原にされ、もう2人が最後に食事を取ったのは数日前にものぼる。周辺の土地は荒廃し、枯れた木や雑草、野生動物さえも見つかれば駆除されるここは、もはや土地として復元は不可能なほどに生命が死に絶えていた。
男はふと手元でぐったりする少女をみる。
出会ったばかりの頃、真っ白だった肌は、外に出てから手入れもされずに荒れ果て、長く輝いていた銀髪もすでに傷んでボロボロだった。
男はそんな少女へ罪悪感を抱え、自分の選択が間違っていただろうかと自問自答する。たとえ望まない場所であったとしても、衣食住が保証され健康に管理されるのであれば、その方が良かったのではないかと、環境はどうあれ安全に生きられたのなら、その方が良かったのではないかと……。
そう思いながらただ前に歩を進めていた時、腕の中の少女がゆっくりと目を開けた。そして進みながらも起きる前と変わらぬ風景に大きくため息をつきながら口を開く。
「……もう、置いて行け」
「それはできない」
男の即答に少女は少しだけ笑ってしまった。
まるで当たり前のように返された言葉だが、少女はこの男と過ごした数日間で彼のその強さを十分に理解している。また自分がこの国から逃げる上での足枷になっていることもわかっていた。自分の重さがなくなればこの男は必ずこの国を脱出できる。
この話は、道中で幾度となく繰り返してきたのに、彼は自分の責任だと言って彼女を故郷へ返すと言いここまで来ている。
「しゃべらず、休めばいい……」
こんな状況下でまだそんなことを言っているのか。目線もくれないまま、男はただ前を見て進んでいた。いつまで続くのだろうと、ぼぅと曇った空を眺めていると、地平線の向こうに柵と川がうっすら見えてきた。
その川は2人がこの数日間ずっと目指していた場所でもあり、少女は男の反応が変わらないことで幻覚のようにも思う。だが、直後に銃声が響き、男は走り出した。
銃声の後から響いてくるのは鉄が擦れる音とエンジン音。徐々に大きくなるそれに少女は恐怖を感じ、思わず男へと抱きつく。
「つかまっていろ!」
次々に響いてくる銃声は、男の足元へ弾丸を落とす。届く距離に追っ手が居ると知り、少女は何もいえずただ恐怖に支配されたまましがみついていた。
男は、草の高い茂みへと逃げ込み、腰を落として走りながら姿をくらまそうとする。が、花火のような音が響き、真後ろの茂みが炎へ包まれた。
敵に容赦はない、すでに生死など関係はなくただ逃すなと命令を受けて追ってきている。
男は爆風にバランスを崩すが、炎に隠れるようにさらに走った。
「もう、もういいから……レクシオ……!」
「巻き込んですまない。だが、もうすぐ着く」
少女がはっとして前を向くと、そこには柵と川が目前まで迫っていた。柵の向こうにある川、その先にあるのは隣接する外国だ。
レクシオは、少女を上へと持ち上げ、柵の向こうへと押し上げた。無事に乗り越えた彼女は、そのまま彼が続くと思ったのに、彼は柵を超えてこない。
「走れ」
「お前も来い! 1人で行かせるな!」
「あちらにはすでに迎えがある。早くいけ!」
「バカ! そんなーー」
直後、再び弾薬のようなものが飛来し、レクシオは大剣を盾にしてやり過ごす、そしてその周辺を一瞬で自動車に囲われた。
「レクシオ・J・ロキア。よくも裏切ったな」
「早くいけ!!」
少女は動かない。しかし、自動車から出て来た男はそれに口角をあげて銃を向ける。
「優秀な将を失って、残念だよ……」
数十名の士官がレクシオへ銃を構えた。彼はやむおえないと大剣を振り抜こうとした時、後ろから高い声が響く。
「やめろぉぉ!!」
少女の怒りの声と共に、士官たちの上空へまるで岩のような巨大な塊が出現する。
士官たちは何が起こったのかわからぬまま、大質量の透明な岩の下敷きになり押しつぶされた。
レクシオは、爆破が起こりうる自動車から離れる為、柵を飛び越えて少女を抱える。
少女はぼろぼろと涙を流して泣いていた。レクシオはここに来るまで、彼女には殺人をさせまいと最大限の気遣いでやってきたのに、ここで手を汚させてしまった事に酷く罪悪感を覚える。
「すまない」
「……レクシオ、お願いだ。もう、ひとりに、しないでくれ」
「……わかった」
レクシオは少女を肩に乗せ自身の胸ほどまで水に浸かりながら川を渡り、霧の中へと消えていった。
*
暖かい日差しが差し込む、オウカ国首都クランリリー領では、人々の衣服からいつの間にかコートが消えて、朗らかな気候が皆を和ませている。
早朝に出勤して来た騎士達も軽装のものが目立ちはじめた宮殿で、リビングに出勤したジンは、部屋に届けられている大きな箱に目線を持って行かれた。
乱雑に山のように詰め込まれているそれは、赤や青、花柄のものやリボンで飾られた沢山の箱で、まじまじと眺めているグランジの横に並ぶ。
「これって?」
「チョコレートだよ」
キッチンにいたセオが、後ろから朝食の準備をしつつ口を開く。彼はエプロンを揺らしながら、現れたジンにお茶を出してくれた。
「こんなに?」
「バレンタインかな? 殿下、出張されてたからその間にチェックが終わったやつが届けられたんだよ」
「チェック?」
「食品として問題ないかって言う検査。手作りじゃないかとか、消費期限に問題がないかとか箱に穴が空いてないとかね」
「手作りだめなんだ?」
「その日食べるならまだしも、届けられて1週間は保管されるんだから無理だって、変なもの入っててもわからないからね」
グランジは、じっと箱の山を眺めている。空腹なのだろうかと聞いてみると、朝食はさっき食べたと話された。
「ジンのも事務所に届いてたよ」
「え、俺??」
「騎士大会で活躍したからじゃない?」
取りにゆくと、3個の箱チョコレートが届けられていて少しだけ照れてしまった。全員匿名でわからないが、小さなものから大きな箱まであって反応に困ってしまう。
「グランジももう沢山貰ってるから、気にしたらだめだよ」
グランジは無反応だが、どう言う釘の差し方だと、ジンは困惑していた。
「誰からかわかる?」
「ヒナギクさんと、ラグドールさんが当日に事務所に来てくれたかな」
「へぇー、このもう一つは?」
「それは、分からないかな? グランジもいつの間にか届いてたって」
誰だろうと本気で考えていると製造メーカーがローズマリーでピンと来た。
「怖いなら預かるよ」
「いや、覚えあるし問題ないかな」
「へぇー……」
セオの反応に困惑してしまう。全員義理ではあるのだろうが、甘いものは嫌いではなくとても嬉しかった。
早速開封して、チョコレートを楽しんでいると、部屋着で寝癖がそのままのキリヤナギがでてくる。
「おはようー、眠い」
「殿下、おはようございます」
「今年もチョコレート来たんだ?」
「はい。今年は、メディアにもよく出られていたので例年より多いですね」
キリヤナギは、じっとしているグランジへ気にもとめず朝のひと時を過ごす。
「ジンも貰ったんだ。嬉しいよね」
「そうっすね……。でも申し訳ないと言うか」
「3倍返ししたら大丈夫じゃないかな?」
「3倍??」
「どこで覚えられたのですか……」
セオは困惑しながら、何がリストのようなものをキリヤナギの横へと置きにゆく。それは、チョコレートをプレゼントしてくれた市民のリストだった。
「今年も匿名のものを除いてまとめでおきました」
「ありがとう。多いね……」
「検品で通らなかったものもありますが、気持ちは受け取れるでしょう」
「お返ししてるんすか?」
「毎年メッセージカードを返送してるんだ。チョコレートも贈りたいんだけど……」
「この時期にこの量のチョコレートの発注を受けてくれるお菓子店がないんだよ。メーカーでやると利権になる可能性もあるから」
「へぇー」
「お店も予約とかあるだろうし? 迷惑かけられないよね」
「宮殿で作らないんです?」
「この量を宮殿でやったら、騎士や使用人の食事を賄えなくなる問題もあってなかなかね」
「ふーん」
グランジは相変わらずチョコレートの山を見ている。キリヤナギはようやく食事を終えて、チョコレートの選別を始めた。
「どう言う基準なんすか?」
「お酒とかキャラメル入ってるやつとか……、苦手なんだよね」
「意外……」
「甘すぎると他の味わからなくならない?」
「確かに……」
弾かれたものはグランジの方に積まれてゆき、ジンは納得していた。
一際目立つ大きな箱は、包み紙を開けるとまるで模型のような自動車のチョコレートとか、テディベアの形のものがあり衝撃を受けてしまう。
「こ、これ食べるんすか?」
「無理……」
「こう言うチョコレートはメーカーが同じなので、キッチンに提供してお菓子の材料にしてもらってますね」
届けられたものはチョコレートだけではなく、クッキーや紅茶セットなどもあり、個性豊かにも見える。特徴的な箱には奇異な形をしたものが入っていたり、小箱には指輪を模したチョコレートもあって、キリヤナギは困っていた。
「貴族の人達からもきたり?」
「うん、でもそれはもう受け取ってて」
「カレンデュラ嬢からも、本日届くと伺っております。受け取れましたらご連絡致しますね」
「嬉しい……!」
「よかったっすね」
カレンデュラ領から戻ってそれなりの時間が経ち、キリヤナギは手紙で届いたククリールの連絡先を再登録していた。久しぶりに音声でも話していたら、バレンタインの話になり、送らせて欲しいと言われたのだ。
「お返しどうしようかな」
「3倍なら手抜けないですね」
来月にはお返しをするホワイトデーがある。このイベントはどちらもガーデニアから輸入されたものが、現在では定着していてみなの楽しみにもなっていた。
分けられたチョコレートを楽しむグランジを尻目にキリヤナギはデバイスでチョコレートを熱心に調べている。しかし街に製菓店が沢山あり、まずどこに行けば良いか分からない。
「うーん、先輩なら良いお店しってるかなぁ」
「アレックスさんは確かに詳しそうですね」
キリヤナギは早速、アレックスへ音声通信を飛ばしていた。朝のひと時を楽しんでいた彼は、快く相談にも乗ってくれたが、キリヤナギの話す量のチョコレートを請け負うのは、どこも難しいのではと苦言を呈されてしまう。
「無理かなぁ……」
『繁盛期だからな、個人店こそ無理があるだろう』
「うーん、ありがとう。少し粘ってみる」
『探す価値はある。自分の足でみてみるのもいいぞ』
回るのも良いが首都にある製菓店は多すぎて目処が立たなければ回りきれない。キリヤナギは、アレックスとの通信を切り、カナトへと繋いだ。
『ご機嫌よう。どうした?』
「カナト、もうすぐホワイトデーだからお返し考えてるんだけど良いお店知らないかな?」
『それは、貴族向けか?』
「貴族もそうだけど、僕のファンにも返したいとおもってて」
『それはなかなかだな……』
カナトは話が早いなぁと、ジンは感心していた。僅かな言葉から大量のチョコレートが必要だと読み取るのは、彼ぐらいだろうと思うからだ。
「受けてくれるかは分からないが、私が今日の午後から訪問するご家庭にケーキ店が併設されているが同行するか?」
「え? それって……」
『時期に合わせチョコレートやクッキーなども販売しているそうだ。以前訪問した際、社交辞令も交え購入したが、味も良かった。合っているとは思う』
アレックスに、自分で見て回るのもいいと言われたばかりだ。受けてくれるかはわからないが、何もしないよりも直接交渉に行ってみるべきと判断する。
「ありがとうカナト。じゃあ一緒にいっていい?」
『わかった。ご案内しよう、ジンも連れてきてくれ』
お茶を飲んでいたジンは吹き出していた。オウカとは違い、ガーデニア人の肩書きへの拘りは普通ではないとすら思う。
「カナトさんも一緒なら、グランジも連れて行って下さいね」
「グランジはチョコレートで忙しくない?」
「関係ありません!」
ピシャリと言い放つ様は、「らしい」とも思ってしまう。午前は少しだけ公務をこなしたキリヤナギは、午後に散歩としてアークヴィーチェ邸へと向かう。
カナトは相変わらず使用人すら連れずグランジへ荷物を預けていた。
「騎士は……?」
「ジンだけでなく、グランジもいるならば十分だろう?」
外国人なのに、なぜ他国の騎士へそこまで信頼があるのかジンは理解ができなかった。徒歩で街を進む彼は、なぜかとても上機嫌にも見え、キリヤナギが興味深く見ている。
「カナトいいことあった?」
「あぁ、昨日、ついにオウカ宮殿に売り込んでいた魔術デバイスの契約がとれたんだ」
「ほんとに!」
「来年度。今年の4月からおそらく導入されるだろう。ガーデニアでは早速大量生産の準備に大忙しだな」
「僕聞いてなかったけど、確かにすごいデバイスだった」
「そうだろう? 2人の宣伝のおかげだ。恩にきる」
半ば押し売りだなぁ、とジンは呆れていた。しかし、カレンデュラ領にて魔術デバイスがジンとキリヤナギの大怪我を防いだ事実は、当然ジンも報告書へと記載していて、この国の最も失ってはいけない生命を守るもう一つの手段になり得る。
「今日の訪問は、その『魔術』に関して新しいプロジェクトを立ち上げる足掛かりなんだ」
「プロジェクト?」
「詳しくは現地で話そう。こちらだ」
カナトに促されるように、4人は大通りから一つずれた道へと入ってゆく。オフィスビルが並ぶ通りは、歩行者が多くいて自動車の方が少なかった。
「ここだな」
そこは公園の前にあるオープンテラスが設けられたカフェだった。2階はベランダになっていて住居が併設されているその店は喫茶、ブリストルグラスと書かれた看板がおかれ、外から見えるショーケースにはケーキや焼き菓子などの沢山のお菓子が並んでいる。
カウンターごしの丸メガネの初老の男性の元へ、カナトは堂々と扉へと手をかけ中へと踏み入れた。
「ご機嫌よう。オーナー」
「おや、アークヴィーチェ卿。ようこそ」
まるで知り合いのような気さくなやりとりは、オーナーの彼が使用人のように錯覚させる。カナトは自前に連絡していたのか、予約席も用意されていた。
「アメトリン殿はおられるだろうか?」
「えぇ、部屋にいるはずです。ここ数日は引き篭ってて出てきませんので、直接お会いされた方がいいでしょう」
「ふむ」
「引き篭り?」
「おや、王子殿下。ご機嫌よう、御心配されずとも病気ではなく、どうやら本を書いているようで、こちらもそっとしているだけです」
へぇーと、キリヤナギは感心していた。ジンは王子が現れたことへ動じないオーナーへ驚く。
「本を書いてるって作家さんかな?」
「本人は違うとは話しておりましたが……」
「作業現場、僕も見せてもらっていいですか?」
「おそらく大丈夫でしょう」
キリヤナギはカナトと共に、店の隅の扉から住居の方へ案内された。少しだけ古風な内装が珍しいが、階段を登ると突き当たりの部屋に「アメトリン領」と札の下げられた扉がある。ノック必須とも書かれていて、カナトは失礼にならぬよう丁寧にノックし声をかけた。しかし扉の向こうから返事はなく首を傾げる。
「留守だろうか」
「オーナーは居るって言ってたけど……」
強めにノックをしても返事はない。事故の可能性もあると危惧したカナトは、仕方なく中を確認する為、ノブを捻った。
フィニアリス・アメトリン。彼女はそう言う名だった。齢にして20歳の彼女は、身長が女性の平均より大きく下回り、少女に間違われることも少なくはない。そんな小柄な彼女は、普通のオウカ人とは違う経歴を持っていた。
フィニアリスは、このオウカに住まうガーデニア人だからだ。
それは5年前。ガーデニアにて魔術の研究所にいた彼女は、ジギリタズ工作員によって誘拐され無抵抗のままにジギリダス連邦の北側にある商業区域へと連れて行かれたからにある。
数年間住んだジギリダス連邦は、ガーデニア並みに文明が発達し、生活面では何一つ苦労はしなかったが、行動に殆どに制限をかけられフィニアリスは2年で限界を迎えた。
祖国へ帰りたいと願い、どうにか脱走の機会を伺う最中、彼女は当時ジギリダスの軍人だった1人の男と出会う。
その軍人の名はレクシオ・J・ロキア。彼は軟禁されているフィニアリスを故郷へ帰す為、自身が所属する軍を裏切り、命をかけてフィニアリスをオウカの属国たる東国へと連れて行ってくれた。そして約1年間、東国で過ごした2人は、「優良難民」として認定され、オウカへの入国許可をへてこの喫茶店へ転がり込んだ。
もう3年前の出来事だが、あの時の辛さは今でも夢に見る。どこにいても命を狙われ、戻っても何をされるかわからない恐怖は、おそらく死ぬまで持つものだろう。
ある日レクシオへそんなことを話すと、彼は「その傷を負わせたのは自分の所為であり、好きなだけ休んでいい」と言ってくれた。
以来彼女は、この喫茶、ブリストルグラスの住居にて、時々手伝いをしながら平和に日常を過ごしている。
今年でもう3年目になり、少しずつ気力が戻ってきたフィニアリスは、オウカのエンターテイメントに興味を持ちアニメや漫画などに熱中していた。そしていつの間にかその作品の続きみたいと熱望し自身で描くまでに至る。
つい先日オウカのカレンデュラ領にて個人主催のイベントが開催され、ウェブで知り合った友人に頼んで自身の作った作品を頒布してもらっていた所だった。
首都に住んでいたその友人は、カレンデュラ領に実家にあり、その日たまたま実家へ戻る予定があったらしく、本を一冊譲る事で快く受けてくれた。
イベント以来の本の感想が気になって仕方なく、この数日はひたすらウェブと向き合っているが、そろそろ顔を見せなければ、レクシオやオーナーに心配されると思っていた最中、突然。部屋の扉が開きフィニアリスはフリーズした。
イベントの後で部屋には大量の資料や、ダンボール、食器、購入して届けてもらった本もむき出しで、着替えまでもが部屋に放置されている。
フィニアリスはノイズカットのヘッドホンをつけていてノックに気づけなかったのだ。
敷きっぱなしの布団に、東国式のテーブルにヒーターのついた「コタツ」へ据え置きデバイスを構える彼女は、突然現れた客人へ思わず悲鳴をあげて、コタツの中へ引き込んでしまう。
「アメトリン殿……」
「ば、ばか!! ノックぐらいせい!!」
「ご、ごめん。したんだけど……」
知らない声が聞こえて、コタツの中から覗くと、見覚えのある顔に思わず二度見した。ここ最近、アニメ好きの層に対しても流行しているドラマのモデルであろう人物がそこにいる。
「おぬし、王子か!?」
「え、うん」
「本物か??」
飛び出してきた彼女を、ジンが遮るように腕を出すが、キリヤナギはそれを冷静に退けていた。
「き、騎士じゃと!?」
「ごめん、僕の護衛なんだよね」
「ひ、ななななんのようじゃ?! ま、まさかわしの王子の本に……」
「僕の本?」
「ふぁ!?」
「申し訳ないアメトリン殿。少しお時間は頂けないだろうか。キリヤナギは作家である貴方の作業を見たいとここへ」
フィニアリスは深呼吸すると、冷静に現れた皆を俯瞰した。
目の前にいるのは、数年前にオウカ国へ入国した際、ガーデニアへ戻るための手続きの時に顔を合わせたカナト・アークヴィーチェ。
フィニアリスは、彼と少しだけ縁があり、低頻度であるが時々連絡を受ける関係性でもある。
その横にいるのは、本を書く為の資料で穴が開くほど見たこの国の第一王子で、思わずまじまじと見てしまう。
「思ったより小さいの」
「き、君に言われたく無いんだけど……」
「アメトリン殿、それはタブーで……」
「お、おう? 無礼じゃったか、すまぬ……」
キリヤナギは、ショックを受けた気持ちを必死に抑えているようだった。
王子は平均よりも数センチ身長が低く、長身のグランジと平均のジンとカナトとよく並ぶ事で比較されがちだからだ。周りから見ても明らかに小柄であるため、使用人達はコンプレックスを持っているのではと勝手に気を使う。
「あのどんな本を書いているんですか?」
王子の興味本位の言葉にフィニアリスは、恐る恐る自身の部屋を見直した。部屋にはイベント会場から戻ってきた自作の本が積まれているが、表紙には男性キャラクターの肌色イラストが描かれ、さらにその周りには、友人が買ってくれた成人向けものが散らかっている。思わず悲鳴をあげそうになり、フィニアリスは部屋を出て扉を閉めた。
「興味を持ってくれたのは嬉しい! でもすまぬ。とても見せられん……」
「見せられない?」
「ま、まだ、執筆中なんじゃ! こう言うのは、描き切るまでネタバレは避けたくての……!」
「そうなんだ……? わかりました……」
「本を書かれているのでしたら、アークヴィーチェでもオウカの書店へ営業をさせて頂くこともできますがーー」
「本気にするな! 趣味じゃ、趣味! と、とにかく、部屋は散らかっているので、下の喫茶で頼む! わしもすぐ準備するので待っていてくれ!!」
フィニアリスは何かに取り憑かれたかのように部屋へ戻ってしまった。そのあまりの必死な態度に呆然としてしまう。
「珍しい話し方の人だね」
「祖父母の影響だと伺っている。苦手に感じたなら治してはくれるそうだが……」
「僕は彼女の自然な態度なら、それでもいいかな」
「はは、『らしい』な」
待っていて欲しいと言われた四人は、フィニアリスの言う通り一度一階の喫茶へともどる。
カウンターについていたオーナーは、夜に向けてグラスを準備しているが、ジンはいつの間にか手前にいた男にゾッとして反射的に腰の銃を触った。屈んでいた彼は、驚いたジンへ微動だにせず目を合わせる。
「いらっしゃいませ……」
「え、はい」
「お席のご用意があります、どうぞ」
男は冷静に4人を予約席へと案内してくれた。グランジは着席を断り、一人で店の入り口で立ってくれることとなる。
資料を広げるカナトと共に待っていると、大きめのジャージに身を包んだフィニアリスが軽快に現れた。
「ごきげんよう。アークヴィーチェ、王子!」
「こんにちは」
「すまぬ。アークヴィーチェは聞いていたんじゃが、王子まで来るのは想定外だった。色々と準備ができず申し訳ない。改めて自己紹介すると、わしはガーデニア人、フィニアリス・アメトリンじゃ」
「キリヤナギ・オウカです」
「それは知っている」
「宮廷騎士団、ストレリチア隊嘱託、特殊親衛隊所属のジン・タチバナです」
「ジン? 『タチバナ』とはあれか? オウカの名門と言う」
「ジンのこと知ってるんだ?」
「うむ、オウカの武器。『タチバナ』。その存在は王族だけでなく、このオウカの異能を抑制すると言う。この国が『異能』の圧政を敷かずにやってこれたのは「タチバナ」があったからこそじゃ」
「え、詳しい……!」
「ふふ、この国の書物は大体読み漁った。なんでも聞くが良い」
キリヤナギが目をキラキラさせて喜んでいるが、ジンは自分より詳しいフィニアリスに返す言葉もなくしばらく固まっていた。
「アークヴィーチェとも仲がいいとは聞いているぞ。王族の騎士と言う割に、意外と誰にでも仕えるのか?」
「俺、オウカ人なんすけど……、カナトとは、去年までアークヴィーチェ邸の管轄だったからで……」
「呼び捨じゃと……? やはりそなたら、ただの仲ではないな」
「え”」
「アメトリン殿、私とジンはーー」
「いや、あえて語らんでいい。想像する事に楽しみを見出しているからな。それ以上は野暮じゃ」
「想像??」
「作家さんすごい……!」
フィニアリスは、ポケットから何にやら小さなメモ帳を取り出して書き留めている。今の流れのどこにメモをする要素があったのか、三人にはわからなかった。
彼女は、四人がけの席から隣の椅子を移動させ誕生席へ座ると、配膳されたお茶をすする。
「ところで、アークヴィーチェの用事はなんじゃ?」
「恐縮です。アメトリン殿、本日はガーデニア人である貴方へ、近日オウカに設立予定の組織についてご提案をさせて頂く為に参りました」
「組織?」
「先日、貴女が開発へ参加していた『魔術』が、このオウカ国へ正式に導入されることが決まったのです」
「ほぅ……」
「開発……?!」
「昨年より他国は、我が国の飛行機の技術を盗難し、いつ空を侵犯してくるがわからない危険な状況です。よって、くるであろうとされる空からの攻撃に備え、都市を覆う巨大な魔術シールドを生成する組織の設立を目指しております」
「ふむ……」
「社名は、サクラの名を取りそれを盾とした『セレソエクスード』。我が家のグループ企業として設立させアークヴィーチェ・セレソエクスード社の社長として貴方を迎えたいと考えております。『魔術』の開発者でありクラス、グランマスターの貴方へ」
グランマスターという単語に、ジンとキリヤナギは一気に興味を惹かれてしまう。フィニアリスは、カナトの言葉を一通り聞き終え、テーブルへ出された資料を見ていた。
そこには、オウカのありとあらゆる都市をどのようにしてシールドで覆うかが書かれていて、彼女はうーんと唸るように返事をする。
「不可能ではない。だが、まだ少し夢物語にも思える計画じゃな。『魔術』はそもそも魔力が供給される場所から、生成される位置までの距離に限界がある。都市ほどの広範囲に生成する為には、均等に『銅』などの貯蓄物質を配置する必要があると思うのじゃが」
「オウカの地下や、ありとあらゆる場所には『銅』によって作られた通信配線があります、これを中心に展開できれば不可能ではないかと」
「距離が足らん」
「……!」
「貯蓄物質からの距離は、長く見積もっても10mもない。地上たかが10メートルなど、近すぎて盾にもならんじゃろ、ましてや地下か? 尚更下がってはどちらにせよ意味がない。これを実現するとすれば、おそらくドーム状でなければならない気も……」
淡々と話していたフィニアリスは、三人の目線が全員こちらを見ていることへはっとする。
「社長とは聞いたが、生憎忙しいのは苦手なのじゃ。あとわしでは力不足でーー……」
「すごい詳しくて向いてそうなのに……」
「『魔術』の仕様を知っているだけじゃ」
「アメトリン殿、どうかそのお力をこのプロジェクトにお貸しいただけないだろうか」
「ガーデニアにもっと優秀なのがおるじゃろ」
「彼らに、このオウカを守る理由はありません」
「……」
「この国へあえて留まろうとする貴方こそ、このプロジェクトになくてはならないと私は考えている。オウカはガーデニアの古き戦友とも言え、『敵』と戦う為にもアークヴィーチェに妥協はない」
「あえて留まっている」と言う言葉に、キリヤナギだけでなくジンも驚いていた。確かに『魔術』を開発したと言う、先進的な彼女が、高度な文明力を誇るガーデニアへと帰らず、オウカに住み着いているのは確かに不思議な事実だからだ。
「その言い方。何か掴んでいるか?」
「まだ何も、」
「ま、この手のことに関しては、うちの国は鈍いしの。危機感もなければ、今の平和へ感謝も忘れている。その誰にも犯されない平和のツケは、全てこの国が背負っていることも知らん」
「ご理解頂けて何よりだ。アークヴィーチェは、我が国の平和保持のためオウカへの軍事的支援に妥協はない。共に戦う為にも、『魔術』の普及はより迅速に行わなければいけないと判断した」
「かのジギリダスの主力武器は『銃』だからの。対してオウカは異能を使った『肉弾戦』じゃ、この壮絶な文明戦争に敗北すれば、明日にでも開戦されても違和感はないな」
「ジギリダスの事も知ってる?」
「触り程度じゃ。幸い王子が健在でありアークヴィーチェとの関係性が公である事で、『オウカはガーデニアの技術をもって武装をしている』と認知されているのじゃ」
「先日はカレンデュラ領へ『営業』に行って参りました」
「は、アークヴィーチェは仕事が早いのぅ」
キリヤナギは何も言わないまま進む会話に驚いていた。カナトは今、『敵』へ『魔術』を見せつけてきたとも話したからだ。
それが本国へは伝わっているのかは不明だが、得意の銃が効かない『敵』が現れたならばそれは対策しなければ勝つ事ができない。よって『敵』は今侵攻しても勝率は少ないと判断する。
「内情的に苦労が絶えないのは同情するが、やっぱり社長はいやぢゃ!」
「そこをどうにか受け入れて頂けないだろうか……、こちらが予定している業務形態です」
四人へ、ケーキとおかわりのティーセットが運ばれてくる。その男にジンはやはり警戒が解けず、横目で観察もしていた。
「……うーむ。そこまで言うのなら、社員ならまぁ受けてやらんでも」
「社長には指揮権と管理権があります。動きやすいと思うのですが……」
「それが嫌なんじゃ、誰かに指図するだけにさせてくれ。あと管理も嫌じゃ」
難題だとジンとキリヤナギは困惑していた。カナトも深く悩み、一応は協力を引き出せたことに妥協をみる。
「かしこまりました、では一応は社員としての参加でよろしくお願い致します」
「頼む。あと在宅で。『作家』業で忙しいからの」
「やっぱり作家さんなんだ?」
「王子がそう呼んでくれるのならば、作家と名乗っておこうかの」
キリヤナギは喜んでいるが、ジンは嘘っぽいと思い本音を黙っていた。一通り話を終えたフィニアリスとカナトをみて、キリヤナギがケーキを嗜むと食べたことのない味で思わずまじまじと眺めてしまう。
「なんだろこのケーキ。すごい」
「それはレクシオが提案したケーキじゃ、美味いじゃろ?」
「光栄です」
レクシオと呼ばれた男は、陳列の確認をしながら返事をしてくれる。レクシオは、しっかりとした肩幅があり、喫茶店の制服がよく似合っていた。
「レオも自己紹介をしてくれ」
「必要あるのか?」
「わしの客だからな」
彼は一度無言で頭を下げゆっくりと名乗る。
「レクシオ・J・ロキア。お見知り置きを」
「こんにちは、僕らももう一度自己紹介した方がいい?」
「既に伺っております。王子殿下」
「レオは耳がいいのじゃ、それによく働くぞ」
「僕、実はこのお店にホワイトデーのお返しをお願いしようと思っていて、頼めるかな?」
「はい。主に私がご用意しております」
「沢山必要なんだけど、相談できる?」
「畏まりました、こちらへ」
レクシオに案内され、キリヤナギがジン共にカウンターへゆくとチョコレートのカタログを渡されて心が躍った。個数を相談していると、レクシオは隣のオーナーと一緒に驚く。
「流石にその個数は、日付までに納品が間に合わないかと……」
「や、やっぱり……?」
「王子、流石だな。やはり本物か……」
「本物なんだけど……どのくらいなら作成できますか?」
「この個数の三分の一でしょうか。この喫茶のチョコレートは全てレクシオが作っておりますのでとてもとても」
「わ、分かりました……」
「すまんな。他にも客がおるんじゃ」
「ううん、ダメ元だったし。それなら一つだけ予約してもいい?」
「光栄です。ではこちらの申込書へ」
キリヤナギが書類を書く間、ジンはショーケースのケーキを数個購入する。
受け取りの日程を軽く説明されたキリヤナギは、その日も明るいうちに喫茶、ブリストルグラスを後にした。
「外国人がいた」
帰り道。カナトを送り届けた後、グランジが唐突に口を開く。
「うん、フィニアリス」
「違う」
ジンは相変わらずのグランジの観察眼に感心する。自身の勘も間違ってはいなかったとわかり確信も得た。
「オーナー?」
「若い方……」
「殿下……」
キリヤナギが分からなかったのは、レクシオの擬態が高度なものだったからだ。確かに普通に関わるならおそらく誰も気づかない。
「おそらく上の中……」
「やっば……」
「何の話……?」
グランジはずっとレクシオを観察していたのだろう。あの喫茶店の住人の中で異質の空気を持つ彼は、そちら側のグランジの興味を引いたのだ。
「ねぇ、何の話??」
「ゲーム強そうだなって話すね」
「ほんとに??」
グランジが頷き、キリヤナギは苦しくも納得していた。
彼が何もしてこなかったのは、今「何かする理由がない」からとも言える。キリヤナギは、ケーキをとりに後日もう一度喫茶店へゆくが、グランジと二人ならば何とかなるだろうとジンは深く考えるのはやめた。
『あら、お返しを用意してくださるの? 別によかったのに』
「いいお店、紹介してもらったからククにも食べて欲しくて」
その日宮殿へ戻ったキリヤナギの元には、ククリールからのチョコレートがとどけられていた。カレンデュラの花が模されたそのチョコレートは、フルーツの風味がつけられていて、正に公爵家を象徴しているとも思える。
普段通り夕食を終えたあと、チョコレートの味を見て、キリヤナギは早速彼女へ通信を飛ばしていた。
『貴方、意外と連絡をくださるのね』
「え、うん。できたら沢山話したくて、毎日は迷惑かなとか」
『そうね。丁度いいです。……そう言えば、お父様にお願いして桜花大へ戻して頂けることになったの』
「ほんとに?」
『これでまた、春からご一緒できますね』
「楽しみにしてる。僕も進学できたし」
『あらよかった。それなら、研究室も考えたほうがいいかもしれません』
「研究室?」
『学生として専門性を磨く為に研究室に所属するの。授業と合わせてになるから、少し忙しいけど……』
「へぇー、ククはもう決めてる?」
『私はもう、シロツキ教授の元で学ぶ予定ですね。貴方も興味があるなら見学されてはどうかしら?」
「……わかった。また行ってみる」
『えぇ、研究室もそうだけど。その前に卒業式もあるから……」
「あ、そっか……」
年始から色々あって忘れていた。春の始まりのこの時期は、数週間後に桜花大の卒業式が控えている。キリヤナギは知り合いは少ないが、従兄姉のツバサ・ハイドランジアが4回生で卒業してゆく。
『貴方は参加されるの?』
「ツバサ兄さんが卒業するから、参加するかな。ククは?」
「私は、特に知り合いもいないので遠慮します。でもハイドランジア卿に会われるなら言伝だけお願いしていいかしら?」
「いいよ。なんだろう」
『ハイドランジア卿の生徒会は、とても居心地の良いものでした。とだけ……』
「……わかった。伝えるね」
『お願いします』
キリヤナギは、ツバサが桜花大で何をしたのかは見ていない。しかしツバサは学生の彼等へ『貴族は統率するもの』と言う印象を植え付け、貴族は一般生徒をいじめから守り、派閥を作りながら手助けをする仕組みを作ったのだ。
だがそれは全ての生徒には及ばず、傘下にならないヴァルサスのような生徒は虐げられ、退学に追い込まれもしていた事実もあるらしいが、その事実があったとしても、貴族は貴族らしい使命を持ったことには変わらず、キリヤナギは『正しい』とも評価していた。
アレックスがかつてないほど『優秀』と判断していたのも、あらゆる階級の貴族が入り乱れる環境下にて、アレックスと言う一つの『敵』つくり、他の貴族が争わない体制を作っていたことにもある。
しかし、その完成された一つの治安は、キリヤナギはアレックスを倒す事で壊された。この一年で果たして責任は取れただろうかと首を傾げるが、まだこれからなのだろうとキリヤナギは身を引き締める。
*
「卒業式? そいやあったなぁ、そんなイベント……」
「……ヴァル」
久しぶりのサークル、「タチバナ軍」へ参加し、キリヤナギは新鮮な気持ちを得ていた。アレックスとヴァルサスは変わらず、日々の練習へと明け暮れ、時々隣の『異能サークル』の彼等に相手をしてもらいながら動きを試している。
「ハイドランジア卿が間も無く卒業だな。私は惜しくもある」
「そう言うもんなのか? 怖い奴って印象しかねぇけど」
「見方によって印象変わるよね」
「王子はどうなんだよ?」
「僕? 僕は従兄弟だし、やっぱり寂しいかなぁ」
「本当かよ」
「優しいし?」
「どこがだよ!」
「確かに、貴様とは死ぬまで会話にはならないだろうな」
アレックスの追撃にヴァルサスは怒っていた。ツバサは、政治的な事へ感情論を持ち込むことを酷く嫌う為、ヴァルサスのように感情重視の相手が本当の意味で嫌いなのだ。
ツバサと対等に会話する為には、お互いに現場を深く理解し、同じ土台に立たなければ議論にすらなり得ない。
「置いてけぼりにしやがって……」
「うーん……」
「王子、私の事は気にするなよ?」
「なんでそうなるんだよ!」
アレックスは誰よりも『敵』になる事へ慣れている。
それは公爵と言う政治を行なわなければならない立場であり、政治的に優遇されていない層から常にヘイトを向けられる立場でもあるからだ。
マグノリアは、一般層へのサービスが手厚く、財力のある貴族への税金が高く取られている為に、人を率いる貴族達との関係性が問題視されている面もある。
「位がかわると、理解するのは難しいさ」
「バカにしてんのか!!」
アレックスはやはり優しく、ヴァルサスの理解に合わせ丁寧に説明してくれていた。
自分の目の前に広がる世界を基準に判断するヴァルサスと、多くの人々が作る世界を俯瞰するアレックスは、やはり根本的に見える世界が違う。
ツバサはこの見え方の違いを完全に割り切る強さがあったが、キリヤナギにはまだ同じことができる自信はなかった。
そんな様子を眺め、ふと隣のサークルをみるといつの間にかツバサは居なくなり、新しいリーダーが『異能サークル』を仕切っている。彼は以前キリヤナギに勝った生徒で、少し物寂しくもなってしまった。
「ツバサ兄さん、もう居ないんだ?」
「今月の半ばには、花束をもらって抜けていた。ハイドランジア家にて、騎士団を継ぐための準備に入っていると聞く。次に顔が見れるのは卒業式が最後だろう」
思えばツバサは、キリヤナギと最後に戦おうとしなかった。それはもう自分がこのサークルから退場し、強さを示す必要がなかったからなのだろう。
以前の戦いは、ツバサが自分が居なくても大丈夫だとサークル部員の彼等へ伝えるための儀式でもあったのか。
「ツバサ兄さん、本当色々勝てない……」
「勝ったじゃねーか」
「そういう意味ではないのでは?」
割り切れないのはまだまだ未熟だと、キリヤナギは心から反省していた。
いつのまにか居なくなっていたツバサに物寂しさを覚え、キリヤナギはその日、サークルの帰りにヴァルサスとゲームセンターへ寄り道をする。
平日のゲームセンターは、殆ど人もおらず騎士の二人も人目を気にせず王子を見守っていた。
「王子、意外とゲーム上手いじゃん」
「そうかな? まだ、始めたばっかりだけど」
「つーか、初めて買ったゲームが格ゲーってどうなんだよ。普通RPGとかじゃねーの?」
「あれは、ジンが選んでくれて……、練習に付き合ってくれるって言うからさ」
「……ジンさん。ガチすぎね?」
「面白いと思うんすけど……流行ってるし??」
ソフト名だけで調べると国内大会まである有名なゲームだが、買ったばかりの初心者に進めるべきではないとヴァルサスは、困惑していた。
反応に困りつつ飲み物を嗜む王子に、ヴァルサスはカバンから数本のゲームを取り出す。
「これもやってみろよ」
「ゲーム?」
「アドベンチャーゲーム? 物語を読むんだ。女の子かわいいだろ」
「これヴァルのクッションの子だよね」
「よく覚えてんじゃん! そうだぜ。めちゃくちゃ泣けるんだよ。俺のとっておきでさ、貸すからやってみろって」
「僕が借りたら、ヴァルが遊べなくなるんじゃ……」
「王子ならちゃんと返してくれるだろ。気を使うならさっさと遊んで返してくれたらいいし」
「……わかった!」
「ハマったら、俺の予備のカバーやる」
「そ、それはいいかな……」
予備があることにキリヤナギは衝撃を受けていた。ジンはそのパッケージをみて、成人向けの表記があることに気づいたが、ヴァルサスの考えに水を差せまいと堪え、見ないふりをしていた。
日もくれかけ、ヴァルサスと別れたキリヤナギは、帰宅する人々が行き交う繁華街を歩いてゆく。その日は、日が暮れる前に帰れそうだとジンが安堵していると、進行方向に何やら口論をしている2名の市民がいた。
一人は高級自動車で乗りつけたのか、貴族らしいブランド服に身を包んだ男性。もう一人は自転車にのった見覚えのある長身の男性。
「あれ、確か前の喫茶店の……」
「レクシオさんっすね」
ジンが珍しく名前を覚えていて、キリヤナギは思わず言葉を失っていた。ジンがその絶句した表情に困惑していると、貴族側の男性の論調がまるで怒鳴るような声へと変わってゆく。
「そろそろ失礼させてもらってもいいだろうか……?」
「ふざけるな! これは新車なんだぞ! 誰の泥だと思っている!!」
「私が洗浄して良いならそれでいいのですが……」
「素人の洗車なんぞ傷をつけるだけだ!! 清掃代を払え! 清掃代を!」
「それはとても払える金額ではないので、勘弁して頂きたいのだが……」
提示された金額は、確かにただの清掃とは思えないほど高額で耳を疑ってしまう。貴族はレクシオを解放する気配はなく、より強気に詰め寄っていた。
「お前、ブリストルグラスの店員だろう? うちの店で働いて返すなら許してやってもいいが……」
「オーナーを裏切ることはできないので、それはご遠慮する」
「加害者の分際で何をーー」
貴族は、ゆっくりと歩み寄ってきたキリヤナギに気づき息を詰まらせていた。レクシオは呆然としている最中、キリヤナギは笑ってみせる。
「こんにちは」
「これは、これは、王子殿下。ご機嫌よう……」
「確か、レンゲ伯爵の、ご子息かな? レンゲ町の……」
「い、いかにも、私はレンゲ町を収める。サモン・レンゲの子。ゲラルド・レンゲです。覚えて頂き光栄です」
「レンゲ町にはよく行くからね。……レクシオは、僕の知り合いなんだけどどうしたの?」
「殿下のお知り合いですか? しかし、この不届者は、私の自動車へ泥をかけそのまま立ち去ろうとした無礼者です。どうか殿下からも何か……」
自動車をみると確かにサイドが汚れていて、ホイールの隙間にも泥がべっとりとついている。水をかけるだけでは流せそうにもなく手間がかかりそうにも思えたが、キリヤナギは少し違和感があった。
「ここ数日、雨降ったっけ?」
え? と疑問に思い、ジンが過去の天気を調べると一昨日までは晴天で、降水確率もかなり低かった。
「ゲラルドさんは、昨日この自動車でどこか出かけた?」
「え? えぇ、田舎の祖母の自宅へ顔を見せに……」
「首都の道って全部舗装されてるから、泥ははねないと思うんだよね」
「たしかに……」
首都の道路は、数日の晴天で渇き水が溜まっている気配もない。泥は砂で出来ていてこの自動車が走っていたのは舗装されていないぬかるんだ砂の水たまりだと分かる。
「首都での汚れじゃないんと思うし、レクシオは無関係だと思うんだけど」
「しかし、こいつは詰め寄ったら認めましてーー」
「覚えがないと話しても、受け入れて頂けなかったので止むおえず……」
ゲラルドが「はぁ?」と声を上げ、キリヤナギは少しだけ安心もする。
「無関係みたいだから、開放してあげてくれないかな? 汚れた原因、調べたいなら僕も手伝えると思う」
「と、とんでもない。王子殿下の手を煩わせる事ではーー」
「もう行って構わないだろうか。この後、仕事がある」
「うん、レクシオ、またね」
彼は自転車へと跨り、そのまま走り去ってしまった。何もいえず見送ったゲラルドは何故か途方に暮れてしまう。
「レクシオとは、僕が連絡を取れるけど……」
「いえ、もう本日は構いません。それでは殿下、ご機嫌麗しゅう!!」
ゲラルドは、自動車へと乗り込み、アクセルを踏み込んで走り去ってしまった。その逃げるような立ち去り方に、今度はキリヤナギが呆然としてしまう。
「逃げたな」
「逃げたっすね……」
「なんで……」
ゲラルドの真意を、ジンもグランジも知ることはないが、言動から「何か言うことを聞かせたかった」ようにも感じ不信感も募る。
「僕って、意外と嫌われてるのかな……」
「付き合える人と付き合えばいいと思いますけど……」
「ジンに言われたくない……」
キリヤナギに睨まれ、ジンは返す言葉がなかった。
別れたゲラルドは、一人レンゲ町の邸宅へと戻り仕方なく自分で自動車の清掃をしていたが、洗えば洗うほど無礼な態度をとっていたレクシオへと怒りが募り、ぐらぐらと感情が燃え上がってきていた。
それもゲラルドは、10人の兄弟がおり、家長たる父サモンが、最も成功した息子や娘に家を継がせると豪語しているからだ。
本来なら長男であるゲラルドこそ、家督を継げるはずだったのに、突然の父の思いつきから、兄弟達は躍起になって努力し、次男は宮廷騎士になると騎士学校へ、長女は役者になると言って劇団へ所属してたりなど、未だまともに職へ着けていないゲラルドは、選ばれるようには思えない。
父の資本を受けて開いた製菓店がようやく常連に恵まれたところで、喫茶・ブリストルグラスに突如現れたレクシオに常連のマダムや若い女性客を全て取られてしまい、恨みが募る。
今日も言いがかりで看板店員にしてやろうと思ったのに、断られたばかりか王子まで出てきて苛立ちが限界まで来ていた。
使用人達は、そんな酷くイライラしつつも丁寧に自動車を清掃するゲラルドへ声をかけるべきか迷っているが、彼は泥一つ残さず洗い終えて声を上げる。
「おい!」
「はい!?」
「例の喫茶の男の身元を調べてくれ。データを用意できたらうちの店のタダ券やる!」
「本当ですか! がんばります!!」
今まで調べるまでもないと思ってはいたが、この機会に全てを洗い出してやると、ゲラルドは企みの笑みを浮かべていた。
「そうでしたか。我が兄に会われたのですね」
「うん。ちょっと怒ってたから、フォローした方がいいか聞きたくて」
日を跨ぎ、騎士棟で毎週決まった曜日に行われるストレリチア隊の訓練へと参加したキリヤナギは、休憩時間にヒナギクと共にクロックス隊に居るジョエル・レンゲと顔を合わせていた。
レンゲ家は貴族の中でも大家族であるとも有名で、兄弟達は名をあげているものも多くおり、次男の彼は宮廷騎士として王宮へと支えている。
「兄さんは少しだけ嫉妬深い所はあるのですが、その性格を自分でよく理解しているので殿下がご心配されなくても大丈夫かと」
「へぇー……」
「でも時々、人のびっくりすることをやらかすので父さんからは、危なっかしいとは言われておりますね」
「ほ、本当に大丈夫??」
「大丈夫です。兄は反省ができる人です。欠点はあっても人を認めていて、才のなかった私へ宮廷騎士を勧めてくれたのも兄です。もし何かあれば殿下が灸を据えていただければと……」
「ぼ、僕、そんな偉くないんだけど……」
「はは、御冗談を。殿下、兄のことはどうかお気になさらずに」
「わかった、ありがとう。ジョエル」
「我が家に興味を持って頂き、光栄です。殿下」
ジョエルはそう言って、休憩を終えて業務へと戻っていった。
宮殿への帰り道にヒナギクから詳しいことを聞かれて、思わずことのあらましを話してしまう。
「なんですかそれは、嫌な貴族様ですね!」
「そうだよね。だから何か理由あるのかなって思ってさ。でもちょっとした悪い癖? みたいな雰囲気だから、今回はこれ以上触れない方がいいかな」
「少しモヤモヤしますが、確かに殿下が間に入られた時点で大事にはなっておりません。それでいいと思います。レクシオさんも何ごともなかったようですから」
「悪い人じゃなくてよかった」
「殿下がお優しくて良かったですねと、直接お伝えしたいですね」
ヒナギクの言葉に、キリヤナギはしばらく苦笑していた。
そして、その日の夕方、喫茶・ブリストルグラスが夜のバーの準備へ取り掛かる最中。多くの騎士の乗る自動車が、店を取り囲む。
客が居らず閉められた店のテーブル席で日課のおやつを食べていたフィニアリスは、突然現れた騎士達に驚き言葉が出ないまま固まっていた。
騎士はカウンターで酒を並べるレクシオの前に立ち、堂々と述べる。
「レクシオ・J・ロキアだな」
「……はい」
「ジギリダス人の貴殿が、我がオウカの貴族を恫喝したという届出がでている」
「はっーー…」
「同行を願えるか?」
「……わかった」
「レオがそんなことをするわけがーー」
「フィー、大丈夫だ」
「……っ!」
「オーナーとしばらく店を頼む」
フィニアリスが止める間も無く、レクシオは一人クランリリー騎士団の自動車へと乗り込んでゆく。
*
その日、ジンは休日だった。
特に予定もなく午前はのんびり過ごしていたが、午後になってから時間を持て余し、少しだけ外へ出かけたいと私服へと着替える。グランジについでの買い物を聞くと、彼からは早々に返事は返ってきて、日常的に使う消耗品と以前のケーキをねだられてしまった。
グランジは大食いだが、味に拘っているイメージがなく珍しいと軽い気分で宮殿から外出する。
平日の街は人もまばらで、自動車も少なく、ジンは店名のメモとうろ覚えの道を頼りに喫茶・ブリストルグラスを目指した。
かの喫茶は、グランジが興味深く観察していた男がいて不安にかられるが、警戒はしたものの彼からは敵意を感じることはなく、不思議な感覚に得ていた。
本来、「戦える人間」は戦うその技術を磨くため、職業もそれに合ったものに着くはずからだ。半端な実力者ならまだしもグランジに興味を持たれる程の彼が、喫茶店の店員をしている事へ違和感が拭えない。適正の職につけない理由はあるのだろうかと、失礼な想像までしてしまいジンは深く考えるのはやめた。
間違えないようにと慎重に建物を確認していると、喫茶・ブリストルグラスの付近に、もう一店、ケーキ店があることに気づく。
しかしその店は、入り口を華やかにしてウェルカムボードを出していたブリストルグラスとは違い、質素なガラス張りの地味な店舗で通行人に気づかれてもいないようだった。
店によってのポリシーの違いを感じつつ、目的の店舗へ向かうと以前のようにウェルカムボードが出ておらず、嫌な予感がする。扉にはクローズの看板がかけられていて、ジンはガッカリしてしまった。諦めきれず中を覗くと来客用のテーブルへと座る影が見える。何かを話し合っているのだろうかと観察していると、奥に座っていたフィニアリスと目が合い、彼女は大急ぎで入り口の鍵を開け、ジンをその目で確認した。
「タチバナか……っ!」
「え、は、はい、えっと、たしか。アメトリンさん……?」
ジンは驚いて、咄嗟に挨拶ができなかった。それは店から出てきたフィニアリス・アメトリンの目が真っ赤に腫れ、まるでずっと泣いていたようにも見えたからだ。彼女は何も言わず、ジンの腕を引き店内へ引き摺り込むと扉を閉めて鍵をかける。
「何かあったんですか……」
「助けてくれ……」
「え……」
「レクシオが、騎士団に連れて行かれた……」
ジンは、フィニアリスの言葉をしばらく理解ができなかった。「騎士団に連れて行かれた」という言葉から連想できるのは、レクシオが騎士団の威力で匿わなければならない事態が発生したとも言える。しかしこの彼女の反応は決していい意味では無い。
「なんで……」
「レクシオは……ジギリダス人なのじゃ」
息が詰まりさらに返す言葉がなくなってしまう。フィニアリスのこの回答は、オウカ人ならば誰もが納得してしまうからだ。
オウカ人にとってのジギリダス人は、終戦から40年の月日を経ても絶対的な『敵』として印象深く、騎士団員ともなれば強い警戒心を持たずにはいられない。
それは、王子への襲撃だけにとどまらず都市部へのテロ行為や辺境の街への襲撃などのほとんどがジギリダス人によって行われているものでもあるからだ。
しかしカレンデュラ領での難民受け入れの姿勢から、市民にとっては差別的な意識でもあるとされ薄れつつあるものの、騎士団では未だ『敵』であることは拭えず、本来の人としての許しが得られない事もある。
「何年目……?」
「2年じゃ、1年間東国で暮らし、正規の方法でこちらへきている。あと3年何事も起こらなければ……もっと幅が広がったのに……!」
東国を介してオウカ国へ現れたジギリダス人は、まず東国で1年間滞在して優良難民の認定をもらわなければならない。そこからオウカへと入国し、5年間問題を起こさなければ数年単位での滞在が許され、騎士団の定期観察が行われなくなる。
レクシオが以前、極限までキリヤナギやカナトとの会話を避けていたのは、揉め事を起こさないための最大限の配慮であったと理解した。
「ジン! お前は裏切りの『タチバナ』なんだろう? レクシオは、あいつは悪いやつじゃない! だから、助けてほしい……!」
必死なフィニアリスの言葉に、ジンはすぐに返答できなかった。
脳裏に浮かんだのは、今まで戦ってきた『敵』だ。
彼らは、キリヤナギへ毒を飲ませ、傷つけ、友人を殺害しようとし、大切な人の家族までも奪おうとした。一度では無い。数十年単位で、彼らは水面下で多くの同胞を殺し、なり代わり、『王の力』さえも奪おうとする。
フィニアリスは、それを知らない。
しかしジンもまた、フィニアリスとレクシオを知らない。
彼と彼女がどういう経緯でここにいて、働いているのか。しかしそれを聞いたとしても、今ジンは、彼を助けたいと思える自信はなかった。
「……すみません。俺にはできない」
「……っ!」
「俺は騎士です。アメトリンさん……」
フィニアリスは泣き叫び、ジンの胸を必死に殴っていた。オーナーは暴れ出した彼女を引き剥がしてくれた為、ジンは軽く礼をして店を出てゆく。
レクシオに何があったのか聞かなかった後悔もあり、自己中心的な自分に嫌気も差してくる。しかし、それを聞いたとしても、彼らは「何をするかわからない」。
今は安全でも、これからも安全である保証など、どこにもない。いつか『敵』になるならば、それは現在でも『敵』であることに変わらないからだ。
逃げるように店をでて、この沈んだ気持ちをどうするかと考えていると、先程通りかかった質素なケーキ店が目に入る。ジンはしばらく考えたが、そこでケーキだけ購入し必要な買い物を終えて宮殿へと戻った。
リビングには誰もおらず、冷蔵庫にケーキだけしまって漫画を読んでいるとげっそりしたキリヤナギが、セオとグランジと一緒に現れる。
「ジン、帰ってたんだ。お帰り……」
「何かあったんすか……?」
「今年の誕生祭の衣装の打ち合わせだよ。殿下、いつも仲裁させられるから……」
「もう皆なんで毎年毎年喧嘩するの……」
「デザイナーとはそう言うものですよ」
キリヤナギは、戻ってくるなりリビングに置かれた新しいコタツへ潜り込んでいた。
フィニアリスの部屋で見たそれは、テーブルにヒーターがついた暖房器具「コタツ」でリビング用の高さに合わせられソファに座って入ることができる。ジンには実家にもある馴染み深い家具だが、宮殿の雰囲気には似合わないと思っていた為に、まさか導入されるとは思ってはいなかった。
「あったかい……」
「長く入るとまたお風邪をめされますよ……」
そう言うセオもお茶を持ってきて一緒に座っている。
去年まで質素すぎたこのリビングは、この一年で漫画が増え、誕生祭や夏の旅行の写真も飾られるようになりとても生活感に溢れていた。
ジンが久しぶりに戻ったときは、あまりにも何もなく心配にもなっていたが、今のこの部屋は堂々とキリヤナギのリビングだと言える。
「……違う」
ジンが振り返ると、グランジが冷蔵庫の箱を取り出して残念そうにしていた。ブリストルグラスのロゴがない箱に、違うケーキ屋のものだと気づいたのだ。
「今日やってなくて……すいません」
「やってない?」
「休みで……」
「どこのお店?」
「ブリストルグラス」
グランジから聞いた言葉をキリヤナギが通信デバイスで検索していて、ジンは少し焦ってしまう。案の定、睨んできたキリヤナギに、目を逸らしてしまった。
「サイトだと営業日だけど何かあったの?」
「レクシオさんがいなかったんです。それで、休みで……?」
「いない? お店って一人いないだけで休みになるんだ?」
「ならないのでは? お一人回しておられるならありそうですが……」
「2人いたな」
「……」
「ジン、何かごまかしてる?」
「本当に臨時休業だったんですって!」
「ふーん……」
「殿下、お菓子を予約されているのでしたら、それに支障が無ければいいのでは?」
ジンはハッとして、言い訳を考えるのはやめた。以前あの店のオーナーは、チョコレートは全てレクシオが作っていると話していたのだ。彼が今、騎士団に拘留されているとすれば、予約済みのチョコレートが納品されない可能性がある。
「チョコレートは、無理かもしれないです」
「え、どうして?」
かなり渋ったジンだが、彼は結局、喫茶店であった事を話してしまった。助けて欲しいと縋るフィニアリスをみても助けたいという気持ちが芽生えなかった事。判断ができず、理由も聞かないまま逃げた事を話し、何を言われるだろうかと顔を上げる。
3人は想像以上に真剣な表情をしていた。
「それは、よかったのでは?」
「……セオ」
「首都にはおよそ数百人、ジギリダス人は住んでたけど、去年の夏以降には半分になってたみたいだからね。ここで摘発されたなら安全になったんでしょ」
言い切るセオは、目を合わせず午後のティータイムの準備を始めていた。キリヤナギは、真剣な表情で何かを考えている。
「……殿下?」
「……ジンは、僕がレクシオを軽蔑すると思ったから黙ってようとしたんだよね?」
「え、」
思えば何故誤魔化そうとしたのか意識もしていなかった。ただ自分が嫌な気持ちになり、無意識のうちにそれは共有したくはないとおもったのだ。
「あまり深く考えてないです。気分が良くなかったので」
「『敵』なのに? むしろ情報共有は重要では?」
「前に少しだけ仲良く話したからさ。僕は別に気にしないんだけど、ジンは今までずっと戦ってきたから、助けられないのは当たり前だと思う」
「殿下……」
「チョコレート一つでしたら、宮殿でもご用意はできますよ?」
「それは良いんだけど、理由が気になるなって。僕狙いなら前に会った時点で何かする筈じゃない?」
これは、ジンとグランジの間でも少しだけ話していた。2名の騎士がいたとしても、手練れならば襲われていた可能性もあったと、あえて何もしなかったのはやる理由がないとも言える。
「指示を受けていない工作員の可能性は?」
「ジギリダスの工作員は、みんな命懸けだからむしろ手段は選ばないってセシルには言われてるんだよね。定期的に人を殺さないと自分が消されるみたいな。だから、無防備な人がいるあの環境で、長く暮らしてるのは逆に不自然というか……」
「殿下、そのお考えは危険です」
「うーん……」
セオの態度は当然とも言え、ジンは口を挟めない。これまでの経験上、キリヤナギがジギリダス人に関わる事自体がタブーとも言えるからだ。
「レクシオの事は気になるけど、チョコレートは諦めるよ。ククの心象にも良くないと思うから」
「懸命です。カレンデュラ嬢へ送る為、我宮殿の最高峰の技術でご用意しましょう」
「ありがとう」
会話はそこで終わり、四人はジンが買ってきたケーキへ手をつける。
喫茶・ブリストルグラスは、食べた事のない味が印象的だったが、こちらはケーキらしいケーキで味もよく、花の造形がモチーフにされているのか見た目でも楽しめた。
「このお店のも美味しい……!」
「全然、人居なかったすけど」
「隠れた名店かな」
いつのまにか、不満そうにしていたグランジの機嫌も戻りジンはほっとしていた。
そして日が暮れ、次の日は早朝からサークルへと参加し、キリヤナギは変わらずヴァルサスとアレックスと共に体を動かす。根気よく続け、ヴァルサスがサークルのグループ通信にに日々の練習風景を投稿していると、興味の持ったメンバーが顔を出し、見学をしたり参加をしてくれたりしていた。
中にはキリヤナギ目当ての女子生徒もいて困ったが、練習に支障はでず平和な時間が続く。
「ジン、ちょっと寄り道していい?」
「いいっすよ」
早々にヴァルサスとアレックスと別れたキリヤナギは、付き添っているジンをみて気軽にそう話す。
その日はグランジが休日で護衛はジンだけだった。ここ最近は、カレンデュラ領での事件と誕生祭も近いことから、出来るだけ騎士2名で行動してほしいとセシルは話していたが、強制力はなくキリヤナギが増員しなければかまわないと言われている。
「どこ行くんです?」
「秘密」
キリヤナギは、自販機で買った飲料を飲みきりジンを連れて大学を出てゆく。普段とは違い、バスを乗り継いでゆく王子にジンが戸惑っていると、たどり着いたのは広い敷地に聳える高い建物だった。白の桜紋が描かれるそこ建物は、この首都を守るクランリリー騎士団の本部でもある。
入り口には、すでにクランリリー騎士団総括、騎士長・クレイドル・カーティスがおり、ジンは息を呑んだ。
「ごきげんよう、キリヤナギ殿下。お待ちしておりました」
「クレイドル、久しぶり!」
「カーティス卿……」
「昨日メールしてて、……突然ごめんね」
「お気になさらずに、すでに要件は伺っております。ご期待にそえるか分かりませんが、どうそこちらへ……『タチバナ』殿も」
既に連絡がとられていてさらに驚いてしまう。応接室へ案内されたジンは、用意されている資料に驚いた。
その書面は顔写真のついたレクシオのものだからだ。
「結論から申し上げますと。ジギリダス難民、レクシオ・J・ロキアの解放はできません」
「やっぱり?」
「……殿下」
うーん、とキリヤナギは資料を読み込んでいる。経歴が書かれたそれは、難民であること以外まっさらで無害とも思えた。
「キリヤナギ殿下もご存知でしょうが、ジギリダス難民に関しては、ある一つの作戦の為、あえて経歴を汚さないよう潜伏している『幹部』の可能性もぬぐえない。よってご自身の安全の為にも、かの男を解放するのはリスクが伴います」
「抵抗された?」
「いえ、こちらの要求に応じ任意同行を」
「なら、そもそも何がきっかけだったんだろ?」
「領主貴族への恫喝、迷惑行為などでの一時拘留となっております」
「領主? クランリリー卿?」
「いえ、伯爵です。個人名は伏せさせていただきたく」
「……軽すぎない?」
「お言葉ですが、伯爵も領主の一人であり、無礼による権威の行使は認められております。踏まえてジギリダス人ならば、致し方はないかと」
クレイドルの真っ当な言葉にジンは逆に安心もしていた。
領主には階級に関係なく、その立場を持っての市民への支配権がある。
領主にとってその市民が有害と判断されたならば、公爵が管理する騎士団へ要請し拘留することが可能なのだ。しかし、その揉め事の程度によっては騎士団の判断より、厳重注意程度で済むものが大半だが、レクシオはジギリダス人であることからその後の危険性を危惧され拘留に至ったのが想像できる。
「迷惑行為って具体的に何をされたか聞いても良いのかな……」
「目撃者はおりませんが、泥をかけられたと……」
ん? とジンもキリヤナギは首を傾げた。以前、出会った貴族がそう話していた覚えがあるからだ。
「恫喝って……?」
「泥をかけたことを注意すると、無礼な言動話し自転車で走り去ったそうです」
「……ぼ、僕多分現場見てるんだけど……、信じてもらえるかな?」
「それは本当ですか?」
キリヤナギが恐る恐る話すと、クレイドルは表情を変えず真剣に内容を聞き行っていた。彼はキリヤナギの言葉からレンゲ家が出てきたことに納得もする。
「なるほど。それは確かに権威の暴走とも捉える事はできます。しかし、そのお話の範囲では、我々はレクシオ・J・ロキアの解放はできない」
「だよね……」
「彼はジギリダス人である限り、先のリスクは拭えません。殿下だけでなく無関係の市民も巻き込まれる可能性もありますから」
「そっか……」
「……これは個人的な疑問なのですが」
「なんだろう?」
「今回、何故殿下はこの男へ寵愛を?」
「寵愛とか、そう言うのじゃないんだけど、目の前に僕がいても構わず、ひっそり暮らしてたのに、ある日突然貴族と話して捕まったのは、流石に理不尽かなっておもったんだ。いつも戦ってくれてる騎士の皆には申し訳ないんだけどね……」
「そうでしたか……」
「クレイドルなら、そう言う問題よく見てると思って」
「えぇ、首都といえど南側はクランリリー騎士団の手が及びにくい地域もあり、領主達は傭兵を雇いながら治安を保っている地区もあります。信頼関係を構築できていない、我々の努力不足もありますが、領主の権力の行使は、時に危険な刃になる可能性を秘めている。我々はその武器が暴走しない為にも、より公平な目で人々を見る努力をしております」
「ありがとう……。今日も忙しいのに助かった」
「どうかお気になさらずに、……差し出がましく存じますが、一つだけアドバイスをさせていただいても良いでしょうか?」
「なんだろう?」
「今回の一件は、あくまで伯爵家への無礼によって行使されたものです」
「……!」
「我々に要請された『権利行使』を伯爵家が取り下げることがあれば、レクシオ・J・ロキアの拘留は、ジギリダス人である事のみとなります。そうなれば、経歴に墨のない善良な市民を我々は束縛はできません」
「……」
「以上です。ご無礼をお許しください」
「今日は来てよかった。ありがとう、クレイドル」
「またいつでもご入用があれば」
凛としたクレイドルの表情に見送られ、2人は応接室を後にする。王宮まで自動車を手配してくれると言われたが、内密で来ている為に、キリヤナギは丁寧に断り再びバスに乗って帰路へとつく。
「結局、助けるんですね」
「……ジンは不満?」
「いえ……」
キリヤナギの雰囲気は、いつもとは違っていた。清々しく当たり前のようにこちらを見る目にジンは何故か安心する。
「殿下がそうなら、それでいいと思います」
「ジンなら、そう言うと思ってた」
それは、当たり前のやり取りに過ぎない。主君の意思へ従者は答え、そこに異論を挟む必要はないからだ。
「方法は決まってるんすか?」
「うーん、まだイメージかな」
キリヤナギのデバイスを除くと、「レンゲ家」というキーワードから出てきたのか、ケーキ店のウェブサイトをみていて、それは昨日ジンが入ったケーキ店「ゲンゲ」だった。8つの花弁が特徴のロゴは、レンゲにも見えてハッとする。
「この店……」
「ブリストルグラスの付近?」
ジンの頷きにキリヤナギは納得していた。その店は、店長とは別にオーナーがいて、近況日記のようなページへウキョウの写真が載っている。
「近いから色々あるのかもね」
何があるのか、ジンは少し怖くもなってくる。
「まだ時間あるかな?」
「夕食なら、まだ……」
キリヤナギがスケジュールを見ると、夕方からセオに来年度のスケジュールを相談させて欲しいと言われていたのを思い出す。それでもまだ少しだけ外を歩けるぐらいの時間はあった。
「ここ行って良いかな?」
「さ、早速?」
「見に行くだけだよ」
ジンは半信半疑だが、二人は一度、王宮付近の駅で降りた後、徒歩でケーキ店・ゲンゲへと向かう。
午後で、人のいない道の質素な店は変わらず存在感が薄く、よくみなければ通り過ぎてしまうところだった。店内に並ぶ焼き菓子やチョコレートの案内をみていると、扉に吊るされた呼び鈴の音に誘われ、定員らしき男性がでてくる。
その見覚えのある顔に、ゲラルドも変な声で驚いていた。
「殿下っ!」
「こんにちは」
「な、な何故ここが……」
「前にお土産でもらったケーキがここので、美味しかったから僕も来たくなったんだよね」
「そ、それは、左様ですか……!」
「うん。少し見せてもらって良い?」
「もちろんです!! 光栄です!!」
ゲラルドはまるで、心が躍るようにショーケースに並ぶケーキを一つ一つ解説してくれる。
季節のフルーツケーキから、ムース系、チョコレートケーキ、丁寧つくったタルトなど、どれもレンゲ家自慢の職人が作ったものらしい。
「数年前までは行列ができていたのですが、ここ最近は客がとられ……」
「この辺りお店おおいし、激戦区っぽいなとは思ってたんだよね」
「ご理解があってうれしい限りです」
「ここは、ホワイトデー向けのチョコレートはやってるのかな?」
「当然、やっております」
「実は、沢山作ってくれるお店探してて相談できる?」
「本当ですか、是非是非」
生き生きとするゲラルドは、キリヤナギを傍のテーブル席へと案内してくれた。
店の奥からも女性定員が現れ、キリヤナギへお茶を淹れてくれる。
「なるほど、これはかなりの数ですね」
「どこにも受けてもらえなくて、困ってるんだよね。お願いできないかな……」
「出来ます! 他の菓子店が不可能ならば、この領主の後ろ盾のある我が家のお仕事でしょう! お任せ下さい!」
「ありがとう……。助かる」
キリヤナギは書類を書き終え、前払い金を電子通貨カードで収めていた。
ジンはレクシオの件を相談するかに見えたのに、まさかチョコレートの発注をするとは思わず首を傾げてしまう。
「チョコレートってやっぱりカカオから?」
「いえ、お恥ずかしながらうちはヤマブキグループの業務用チョコレートを入荷しております。便利なものでどこの店も仕入れだとは思いますが……」
「ウェブで見たけど加工大変だもんね」
「えぇ、しかしヤマブキグループのカカオは、東国の離小島でとれた高品質なカカオで作られているので、舌にスッと馴染んで大変美味なのです」
「そうなんだ?」
「ローズマリー産も悪くはないのですが、元々熱帯で取れる植物なのでやはり温かい地域で育った方が美味しく仕上がりますね」
「参考になる。ありがとう。チョコレート楽しみにしてるね」
「お任せください! 目処が立ちましたらこちらの連絡先へご連絡させていただきます」
ジンは、その日も売られていた焼き菓子を購入し、キリヤナギと共に店を後にする。
徒歩で帰っている最中、店が見えなくなったタイミングでキリヤナギは徐にデバイスを取り出した。
『ごきげんよう、キリヤナギ』
「カナト、お疲れ様。今いいかな?」
『構わないぞ』
「前聞きそびれたけど、カナトはホワイトデーのお返しは考えてる?」
『私のお返しか? そうだな。オウカだと普段から交流のある貴族の方からも渡されることがあるので、一応返礼はしているが……』
「ガーデニアでは渡さないの?」
『ガーデニアではそもそもチョコレートは「思いを寄せる人」のみに渡すもので、それ以外には渡す文化はない。楽しみたい人々は、チョコレートではなく、クッキーやマシュマロなどのチョコレートではないお菓子を交換するのが近年の流行りだな』
「へぇー」
『しかしそれもコミュニケーションの一環で、仕事仲間に渡すことはないな』
「オウカだと、そう言うのは『義務チョコ』って言うらしいよ」
『はは、面白い表現だな。我が国の「リーマン騎士」と言う造語に似たものを感じてしまう」
他愛のない雑談に、ジンは少し反応に困っていた。『義務チョコ』は、主に女性騎士からよく聞く最近の言葉で、王子が知っているのは意外だったからだ。
「最近貴族の友達に聞いたんだけど、オウカのヤマブキグループが下ろしてるチョコレートが高品質らしくてガーデニアでもどうかなって」
『ほぅ、キリヤナギから商談とは珍しいな』
「お菓子職人の知り合いの話だから、是非進めたくて」
『チョコレートは、毎年マグノリア領よりコルチカム商会を介して輸入していたが、キリヤナギの勧めならば、そちらも交渉してみよう』
「感想楽しみにしてる」
『わかった』
ジンは聞いていて、何故か身体中に違和感が走っていた。その形のない不安感に何事もなく歩を進める彼を止めてしまう。
「僕は友達に、おすすめのチョコレートを紹介しただけだよ」
「そ、そうっすけど……、なんで今?」
「気分かな?」
キリヤナギは鼻歌を交え、日が暮れてゆく街を歩いてゆく。
そして月が変わり、ホワイトデーが数日前に迫り来るオウカの町は、ある日から朝のニュースへチョコレートの話題が報道されるようになる。その内容は、間も無くホワイトデーが近いにもかかわらず国内のチョコレートが品薄となり奪い合いとなっていると言う事だった。グランジはそのニュースをみながらキリヤナギより分けられたチョコレートを大切に頬張っている。
「し、品薄……?」
「そうみたい。王宮はヤマブキグループから買ってたから大打撃……勘弁してほしいよ」
リビングへ出勤したジンは、まず視界に飛び込んできたそのニュースへ釘づけとなってしまう。
「ヤマブキグループ?」
「オウカのお菓子業界では、一二を争う大手企業だよ。宮殿にもチョコレートとか、生クリームをつくる生乳とか卸してくれてるね」
「へぇー」
「今回はガーデニアのお菓子メーカーが、ヤマブキグループのチョコレートに目をつけたみたいで買い占めが起こってるっぽい?」
「……」
「ジン?」
「た、たいへんじゃん……」
「何かあった??」
セオと目が合わせられず、ジンは話したい気持ちを必死に堪えていた。あの時のカナトとの通信が、国内の流通に影響を与えているとも思え動揺してしまう。ジンは、ニュースを見ているグランジが、チョコレートの二箱目に手をつけているのを見てどうにか平静を保っていた。
しばらく口をつぐんで居ると、奥の扉からキリヤナギも現れる。
「おはよぉ」
「おはようございます。殿下」
早速コタツにはいるキリヤナギは、ボーっとテレビをながめている。
「チョコレート品薄なんだ?」
「えぇ、時期的なものもあり価値も高騰しているようです。王宮では、急遽コルチカム商会からも回してもらえないか交渉中ですが、こちらはそもそもカカオを加工するメーカーに限りもあって生産がおいついていないと……」
ニュースでは、国内の流通ルートの解説がされていて、ヤマブキグループは大量のカカオを東国から輸入し、それを自社で加工する巨大なチョコレート工場があるが、コルチカム商会は、あくまで国内生産のカカオを多くのメーカーで加工して流通量させており生産力に限界があるとも言われている。
「外国は、自国での生産でもできますし、そこまで量は必要はない筈ですが……本当にガーデニアの貴族は傲慢ですね」
「そのうち戻るかな?」
「時期が過ぎれば落ち着くでしょう。カレンデュラ嬢へのチョコレートは、取り置きがございますのでご安心下さい」
「ありがとう」
「当然です」
ジンは必死に黙っていた。キリヤナギは嘘をついているそぶりも見せず、「たまたま」を勘繰ってしまうが、他ならぬジンの勘が「間違いなくキリヤナギの所為」だと訴えている。
そんな彼は、自室から持ってきた手元の書類をみつつ、セオの作った朝食へ手をつけていた。
「殿下、そちらの書面は?」
「僕のファン向けのチョコレートの書類」
「受けてくださるお店があったのですか……?!」
「うん。今日が納品日で、受け取りに行こうと思ったんだけど……」
「この品薄状況では、流石に無理なのでは?」
「そうだけど、予約だけして取りに行かないのもなって……」
「それは、そうっすね」
「量が多いから、自動車出してほしいんだけどいいかな?」
「わ、分かりました。申請しておきます」
「ありがとう」
グランジがようやくこちらに気づき立ち上がっていた。三箱目を食べ終えた彼は、残りのチョコレートをキッチンの戸棚の下へしまい、外出の準備をはじめる。
そして午前のスケジュールを終えたキリヤナギは、自動車へと乗り込んで首都へと繰り出した。隙あらばと助手席へ乗りたがるキリヤナギを、グランジが後ろへと押し込み、3人はケーキ店「ゲンゲ」へと向う。
徒歩でもゆける距離の「ゲンゲ」は、その日人だかりができていて、ゲラルドが何度も頭を下げて謝っているのが見えた。
「で、殿下……」
ゲラルドと目が合いキリヤナギは、グランジを自動車へ残して店の前へと歩を進める。
「ごめん、忙しかったかな?」
「いえ、その……と、とにかく中へ」
店員へ中へ誘導されたキリヤナギとは入れ違いに、女性店員がお詫びのお菓子やチケットを人だかりへと配っていた。
*
「申し訳ございません!!」
大声で頭を下げるゲラルドにキリヤナギは驚いて固まっている。ジンは無反応の振りをするが心はとても複雑だった。
「チョコレートの価格高騰により、現在入手すらできずご注文頂いた個数はとても用意ができません」
ジンは後ろで聞いていて、納得もしてしまう。店としては当然の対応だが、これはキリヤナギのせいの可能性もあるからだ。
いつもの流れなら、彼は笑って許し穏便にことは済むだろうと思っていたが、
「それは、ちょっと困るかな……」
「頂いた金銭にかんしては、返金と言う形で……」
「僕はもう受け取る前提で来たんだけど」
「それは……申し訳ございません」
あれ? とジンは驚いた上にさらに動揺もしてしまう。許すと思ったキリヤナギから予想外の言葉が飛び出したからだ。
「どうにかならない?」
「時期が過ぎれば……」
「それだと意味がないかな……」
「代わりのお菓子でどうにか……」
「えぇ……」
テーブルには、換金のできる小切手と用意ができる他お菓子のリストが提示されていた。どちらか選んで欲しいと言う意味なのだろうが、キリヤナギは見向きもしない。
「これは僕が考えてるのとは違うんだけど……」
「このタイミングでご用意するには、以前提示した金額の倍はかかり、採算がーー」
「それは注文した僕の所為って意味?」
「そんなつもりは……」
どう言うつもりなのだろうと、ジンは混乱していた。確かに納品ができない責任は店側だが、ここで押し通したとしてもいい方向にも向かないとは思うからだ。
「どうか。チョコレート意外で金額内のできることならば、させて頂きたいと考えております」
「お金は良いんだけどさ……。僕はお返しを用意したかっただけだし」
「申し訳ございません」
ここまで攻める王子だっただろうか。ジンの知るキリヤナギとは違い、思わず口を開けた時だ。
「しょうがないか……。じゃあ、君がこの前だした、レクシオ・J・ロキアへの『無礼による権威の行使』の取り下げで許すよ」
「は?」
「僕、レクシオにもチョコレートお願いしてたんだ。君のせいでダメになったから、代わりにお願いした」
「……」
「できる?」
ゲラルドの中に、以前、レクシオとの事が思い出され頭を抱える。しばらく黙った彼は、目の前に優雅に腰を据える彼を見据えていた。
「平和に生きている人々を、ただの言いがかりで排除してはいけない。それは犯罪を犯さない限り出身も関係ない。取り下げを確認したら、このお菓子を個数分発注しよう」
「も、申し訳ございません、でした!!」
ゲラルドは、テーブルへ頭をぶつけるように礼をしていた。キリヤナギは謝罪だけを聞いて机を立ち、店を後にする。
「……殿下」
「何?」
「計った?」
「さぁね」
キリヤナギは、ただ友人へオウカのチョコレートを勧めただけだ。それが、たまたま注文したチョコレートが納品されなくなり、別店舗でも発注したが、時期が悪く品薄になり用意ができなかったにすぎない。
ジンはそれ以上は聞かず、再び自動車へと乗り込んだキリヤナギを王宮まで送り届けた。
「チョコレートは如何でしたか?」
「納品だめだった。代わりにクッキーお願いしたよ……」
「でしょうね」
リビングには、ククリールへ送ることを想定したホワイトチョコレートのサンプルが届いていた。外箱にも国章が飾られ、まるで結ばれるようにカレンデュラの花も形どられている。
「かわいい……」
「はい、ぜひお召し上がりください」
女性に送ることも想定されているのか華やかなデザインは、見ているだけでも楽しませくれそうだった。
「美味しい」
「カレンデュラに宅配するため、ケーキ仕様には出来ませんでした。お許しください」
「ううん。ありがとう、喜んでくれたらいいなぁ」
ジンとグランジも試食すると、チョコレートなのに違う味がして意外性すらも感じる。
「ゲンゲには、いつ取りに行きます?」
「一応、店出る時に来週初めの日付は書いておいたし、その日に行くかな?」
キリヤナギは、ポケットの通信デバイスを確認していた。スケジュールかと思えばメールの一覧で、彼は一瞬見た後ポケットへと直す。
「ではこれを当日、カレンデュラへ届くようご準備いたします」
「うん。お願い、またキッチンの皆にもお礼言いに行くよ」
「私もお伝えしておきます」
もうしばらく、オウカでの甘い日々は続く。
そして日付は、喫茶・ブリストルグラスのチョコレートの納品日を迎えていた。その日は、ケーキ店ゲンゲのお菓子の納品日と重なっていて、キリヤナギはカナトとも連絡をとり再び四人で足を運ぶ。
「割り込むようで済まないな」
「なんでカナトも?」
「フィニアリスをもう一度説得したいんだって」
「この数日でオウカ国内にいる知り合いへ片っ端から打診していたが、誰も受けてくれそうにはない。やはり、在宅されている彼女へお願いしたいが……」
「貧乏くじになってね?」
カナトは、道中でも深刻に悩んでいる。ジンは以前逃げるように喫茶を出ていて気まずく、中の警備はグランジへと任せようと思っていた。
道沿いへウェルカムボードが出ている喫茶・ブリストルグラスに、ジンはまずほっとする。扉を開けようとするグランジが、一瞬止まったように見えた時、扉は向こうから先に開いた。
飛び出してきたフィニアリスは、ジンを見つけ一番最初に飛びついてくる。
「タチバナーー!」
女性である手前、ジンは彼女が怪我することを考えると避ける事ができなかった。後ろに倒れそうな勢いを抑え、彼女を受け止めるとフィニアリスは嬉しそうにジンを見上げてくる。
「そなた! 食えないのうー!」
「アメトリンさん?!」
「フィニアリス、こんにちは」
「王子! カナ坊! まっていたぞ!」
店内には、水を用意するレクシオがいる。キリヤナギはカナトと共に再びテーブル席へと案内されていた。
「チョコレートもできておるぞ!」
「よかった。ケーキも食べて帰っていいかな?」
「もちろんじゃ!」
「アメトリン殿、ジンと一体何が?」
「ふむ、深くは言えないが、こいつは恩人じゃ」
「へぇー、いつの間に?」
「何もしてないっす!!」
「ふふ、そうじゃな。言えん気持ちはわかる『タチバナ』とはそう言うものじゃ」
キリヤナギが、腹を抱えて笑っている。フィニアリスは気にもせずアップリケのついたエプロンを着て、メニューを持ってきてくれていた。
「カナ坊は、何しにきたのじゃ?」
「はい、巨大魔術シールドに関して新しい仕様を考えてまいりました。アメトリン殿に見て頂きたいと」
「ふむふむ」
二人が話す横で、キリヤナギは注文したチョコレートの確認を行っていた。その中身に間違いはなく、彼は受け取りのサインを行う。
「確かに、これなら行けるが……」
「はい、ぜひこれを使い。我がアークヴィーチェ・セレソエクスード社の社長へとーー」
「社長は嫌じゃといっておろうが!!」
想像以上の賑やかさに、思わず気持ちが緩んでしまう。申込書を確認し、店内でオーダーされたケーキを運んできたレクシオは、ジンと目が合うと小さく頭を下げてくれていた。
「な、何もしてないんすけど……」
「うむ、そう言うことにしておこう」
「それで良いんじゃない?」
「殿下……」
しかしこれは、下手に話すことはできない。それは王子が、事実どこかへ圧力をかけたとも疑惑を流す可能性もあるからだ。
「チョコレート、品薄なのに納品ありがとう」
「オーナーにコルチカム商会系列でコネがあってのう。必要分だけ回してもらえたのじゃ」
「フィーちゃん、それは秘密ですよ」
「このメンツなら大丈夫じゃろ。なんせ元宮廷のお菓子職人じゃし?」
「そうなんですか?」
「昔の話です」
王子をみて驚かなかった理由を理解し、ジンは納得していた。そして、そんなオーナーが、レクシオを雇っていることにも不思議な感覚をえる。
「私も何も存じませんが、『タチバナ』殿。ありがとうございました」
「本当に何もしてないんですけど!!」
「ジンからもアメトリン殿へ打診してもらえないか?」
「カナ坊はしつこい!!」
ケーキを楽しむキリヤナギは、この上なく優雅だった。今日はグランジも席について無警戒でもあり、ジンまで気が緩んでしまう。
*
「今日も無理だったか……」
「しつこいと嫌われるから、諦めた方が良いんじゃないかな……」
ブリストルグラスを出た4人は、一度受け取ったお菓子を自動車へおき、喫茶ゲンゲへと向かう。
いくら説得をしても折れないフィニアリスに、カナトはかつてないほど絶望的な表情を見せている。
「キリヤナギにまで言われては、これ以上はやめよう……やはり、私がやるしかないのだろうか」
「そもそもなんでカナトじゃねーの?」
「私は余裕がないんだ。現行ですでにガーデニアのメーカーとオウカのメーカーの橋渡しをおこなっていて、ここにさらに業務が加われば私が過労死する」
「そこまで??」
「やる事が山積みだからな……」
キリヤナギはしばらく黙って聞いていた。
ケーキ店、ゲンゲにはすでにたくさんのお菓子が置かれていて、ゲラルドが頭を下げて迎えてくれる。
「ゲラルド・レンゲ卿。ありがとう」
「いえ、この度はご利用ありがとうございました……」
「レンゲ卿か。私はガーデニアの外交。カナト・アークヴィーチェだ」
「ごご、ごきげんよう。夜会以来ですね光栄です」
ジンとグランジが、自動車のトランクケースへ大量の袋を運び込む最中、カナトはその質素なケーキ店を不思議そうに俯瞰していた。
「失礼ですが、伯爵家である貴方様が、何故このようなケーキ屋を?」
「え、わ、私は才に恵まれず、この店も父の資本をもって建てられたものです。使用人達はこうして支えてはくれますが、これぐらいしか……」
「商才が無かった、と言う意味だろうか?」
「そうなるのでしょう……。現に、向かいの喫茶に客を取られ、王子殿下からの発注にも応えられず、もう私は何をすれば……」
少しだけ泣きそうになっているゲラルドに、カナトは困っていた。キリヤナギは、ふと彼の弟ジョエルの話をおもいだす。
「ジョエルは、ゲラルドの事とても褒めてたけど……」
「ジョエルとは?」
「レンゲ家の宮廷騎士かな? ジョエル・レンゲ卿? 優しくて……」
「ジョエルは昔から慕ってはくれています。優しいジョエルに、宮廷騎士は向いていますから……」
「ジョエルは、レンゲ家に使える使用人はみんなゲラルドが好きって言ってたよ。だからもっと自信持って良いんじゃないかな?」
「ほぅ」
「よ、よくは言われますが、私にはそれしかありません……」
カナトは、しばらく場を俯瞰していた。ゲラルドの横にいる女性店員は彼を慰め、とても心配しているようにもみえる。
「失礼、貴方はこの店の?」
「はい。ゲラルド様のと共にこちらへ勤めさせて頂いております」
「ではなぜ貴方はここへ?」
「私は、使用人でありながら家事がとても苦手でした。でも、お菓子のデザインや店番ならできるのをゲラルド様が買ってくださったのです。今はこうして価値を認められとても嬉しいです」
「なるほど、ゲラルド殿。私は貴方はとても熱い人望があるとみた。少しだけ相談させてはもらえないだろうか」
「はい?」
ゲラルドはしばらく呆気に取られ、詳しくは中で話す事となった。オウカを護る魔術の『盾』の話に、ゲラルドは感動もしている。
「そんな重要なお役目を私に?」
「はい。ゲラルド殿、ぜひ貴方にはこの会社の取締役となり必要な人材管理を行って頂きたい。詳しい業務内容はこちらで全て指定させて頂こう。学んでいただけるならば光栄たが」
「やります、どうかやらせていただきたい」
「おや」
「私は、何の才もない。だが、『人が何ができるか』を見極めるのは得意です」
「なるほど適任だ。ではゲラルド殿。これからは我がアークヴィーチェ共に友人としてよろしく頼む」
「はい!」
「あの、お店は……」
「大丈夫だ、カナデ。私が投げ出したことはあったか?」
「……! はい。がんばります!」
ゲラルドと店員の信頼関係は熱くカナトはしばらくの間、魔術について語り倒していた。社長が見つかり仕事が確約できたカナトは、かってないほど上機嫌のまま自身のアークヴィーチェ邸へと帰ってゆく。
「社長が見つかってよかった」
「よ、よかったっすね……」
本当によかったのか、ジンは今一つ判断に困っていた。運転をかわってくれたグランジは、片目でも真剣に前を見て丁寧に運転してくれている。
「さぁ、ちょっと忙しいけど頑張らないと……」
「頑張る?」
何の話だろうと首を傾げていると、宮殿へと戻ったキリヤナギは、チョコレートのお返しの為一人一人にメッセージを書き始めた。その物量にジンは困惑してしまう。
「まじで全部書くんです?」
「時間が許す限り……」
「明日には発送しなければ間に合わないので、今日までですね」
彼が早めに用意していた理由も理解して、思わず興味深く眺めてしまう。
「手伝います?」
「できるだけ、自分で……」
完成したものから袋へと詰める作業は、単純ではあるが丁寧に行わなければラッピングが崩れてしまう。セオはそんな様子を眺めながら、ブリストルグラスのチョコレートを人数分に分けてくれた。
納品されたチョコレートに、レクシオの釈放を知ったセオは、複雑な心境を隠しきれていないようにも見える。
「器用なジギリダス人もいるものですね……」
「セオ……」
「ケーキもおいしかったよ」
デザインは至ってシンプルでもあり華やかにも見える。
王宮のチョコレートほどではないがしっかりとした味がついていてとても美味だった。
「……美味しい」
「でしょ?」
あからさまに嫌うセオの態度にジンは戸惑うが、そんな彼の心境も大いに理解ができてしまう。
使用人は普段から宮殿内の衛兵と密接に関わり、同僚にも近い関係だが宮殿内に潜んだ『敵』に彼らは何名も殺されているからだ。誕生祭だけにとどまらず侵入した敵と真っ先にに戦うのが彼らであり、セオはそんな別れをもう何度も経験している。
キリヤナギはそんなセオの気持ちを誰よりも理解していて、彼が言い放つ差別的言動にも否定はしない。
「お菓子は構いませんが、釈放されたとは言えブリストルグラスへゆく時は、必ずジンとグランジをお連れください」
「わ、わかった。約束する」
いつもの呆れた様子は見せない彼には、関わってほしくはない本音と束縛はしたくないという二つの葛藤があるのだろう。キリヤナギはその気持ちをできるだけ汲み取っているのか、彼の釈放に関わった話は一切口にはしていなかった。
グランジは事務所へもどり、セオも席を外すリビングで、ジンは結局キリヤナギの作業を手伝うことになる。
「ジンは、今回嫌な気持ちになった?」
目を合わせずに聞かれて、ジンは驚いた。キリヤナギのこの言葉は、今回の事柄の全てを知るのが「ジンだけ」だからだろう。レクシオを「助けたい」と思えなかったジンを、キリヤナギが救ったことに対する感情を聞かれている。
「いえ、俺はこれでよかったと思います」
「そっか。ありがとう」
ジンが考えていた事は、もうキリヤナギが代弁している。それはこのオウカの「国民」として認められる限り、その人種に関係なくその身は保障されなければならないと言うことだった。
その日、夜なべをしたキリヤナギは、終わった直後にコタツで寝てしまう。
キリヤナギにチョコレートを送った人々には、王子からの手書きでメッセージが届けられ、しばし話題にされることとなった。