「それ、どういう意味?」
「……」
早朝、ジンは、リビングチェアへ深く腰掛けるキリヤナギからまるで説教をされている気分にもなっていた。
昨日の夕方、金曜日の週刊誌メディアから宮殿へと連絡があり、ツバキ家の娘が犯罪に関与したスキャンダル記事を月曜日に流すと連絡をしてきたのだ。
連絡を受けたオウカ宮殿はパニックとなり、ツバキ家へ事実確認が行われることになったが、当本人のソラが騎士団へ保護されている事からツバキ家の犯罪の関与が濃厚となり、家の直系たるサーシェスとセオも処分保留として謹慎させられることとなってしまった。
「セオの妹のソラちゃんが、違法賭博店で働いてたみたいで……」
「あり得なくない?」
「俺もそう思うんですけど、本人が認めちゃったみたいで……」
キリヤナギは、怒りを抑えるような表情でデバイスから通信を飛ばしていた。ジンが呆然と見ていると、数回の呼び出し音の後、聞き覚えのある声が通話から漏れてくる。
『キリヤナギ殿下、ご機嫌よう』
「クレイドル……」
クランリリー騎士団総括、総隊長のクレイドル・カーティスは、まるで待っていたかのように通信へとでた。
キリヤナギは、わき立つ怒りを抑え込むように冷静な言葉で彼に問う。
「ソラ・ツバキを保護したって聞いたんだけど」
『えぇ。この件についてはご連絡を下さるだろうとお待ちしておりました』
「事実?」
『はい。ツバキ家の長女、ソラ・ツバキ嬢は、容疑者の一人として今現在我々が保護しております』
「捕縛じゃなく保護なのはどうして?」
『ソラ・ツバキは、賭博店で働いていたことは認めましたが、賭博店であったことは知らなかったと話しており、まだ断定する段階にはないと判断致しました』
「つまり騙されていた?」
『まだ断言はできません。ソラ・ツバキの保護はメディアより通報をうけた店舗へ向かった際、出勤してきた彼女と鉢合わせし事情を伺ったことにあります』
「そうか……。ありがとう、クレイドル」
『ツバキの彼女は、殿下にとっても親族にも近いでしょう、お心をお察し致します』
「また、連絡して構わないかな?」
『えぇ、なんなりと』
キリヤナギは丁寧にお礼を言って通信を切っていた。目の前で立ち尽くすジンは、もはや何を言えばいいか分からず、俯いている。
「つまり、ソラちゃんの証言で断定した?」
「多分? まだ関係者とは言い難いと思うけど……」
キリヤナギが頬杖をついて考えていると、向かいのジンが、かなり深刻な表情をしている事に気づく。
「少し、お腹空いた……」
「……!」
「久しぶりに自分で作ろうかな……」
「いえ、俺がやります。少し待ってください」
グランジは、朝から実家に戻ると言うセオを手伝い今はいない。キリヤナギは普段通りテレビをつけて土曜日のバラエティ番組を見ていた。
「あの……」
「?」
「これからの事、話していいっすか?」
「なんだろ」
「セオが、しばらくは戻らないので、今日の午後からボタン家のバトラーがつくみたいです」
「……そっか、わかった」
「断れるとは思いますけど……」
「ううん。それで平気。誕生祭もあるからジンとグランジだけだとパンクすると思うし……」
「す、すいません』
「誰も悪くないと思う。多分、狙われたんじゃないかな……」
「それは……」
「ツバキへのピンポイントだから、あからさまだなって」
「……」
キリヤナギのぼやきにジンは改めて先程の会話を振り返る。
クレイドルによるとメディアから通報されたと話していたが、宮殿への連絡はツバキ家が関与して居たことを知らせる内容だったからだ。
『違法賭博店であった事』と『ツバキの関与』は、本来なら同時にしれるはずのない情報なのに、メディアはそれを正確に把握していたとも言える。
「何か目処があるんです?」
「宮廷使用人って、騎士みたいに貴族と平民って言うって明確な位の区切りはなくて、『仕える相手』によってその品格が変わるって所はあるんだよね。しかもその選出は、その働きとか努力とかだけじゃなく『個人の相性』で選ばれたりとかするんだよ」
あ、とジンはキリヤナギが言いたいことを大まかに察した。彼が話すその中身は、『努力しなくとも、仲良くなれば要人へ仕えられる』と言うことだからだ。
「貴族に気に入ってもらえれば、ある日突然下っ端から総括になるみたいなことはザラにあって、勿論みんな、その為に努力するけど、その根っこに渦巻いてる感情は穏やかじゃない。だから人間関係のトラブルは絶えないみたい」
「大変っすね……」
「僕のバトラーがセオから変わらないのは、ツバキの信頼もあるけど、そう言う使用人のいざこざで組織のガタつきを抑える為でもあってさ。でもそれでも嫌がらせとか評価を故意に落とすような工作は時々あるみたいで。今回ももしかしたらそれかなって……」
「それは、まずいんじゃ?」
「バレたら速攻で懲戒? だけど、やり方は色々あるし、難しい問題だよね」
ルールの目を掻い潜り、位から引き摺り下ろそうとする人々もいる。騎士とは違い、使用人は個人の感情が考慮される為、妬みの対象になりやすいのだ。
「セオが誰かに恨まれてる?」
「セオか分からないけど、ツバキ家に因縁のある家はあるかな」
「なんで言う家です?」
「サザンカ。元宮廷使用人序列3位の家だよ」
「サザンカって、あの、サザンカ?」
「うん。ホテルメーカーサザンカ。彼らは僕のおじいちゃんの妹? の駆け落ちに加担した経緯があって、家ごと宮殿を追放されたんだ」
「駆け落ち?! セオは関係なくないです?」
「そうなんだけど、王家が栄え、序列の入れ替わりが当たり前だった時代から、王家の衰退と世代交代によって固定される事になり、永遠の最下位が決まってプライドは粉々にされただろうし、その溜まりに溜まった感情が、追放と言うきっかけで憎しみに昇華されたなら、僕はかろうじて理解はできるかな。今はかなり是正されたけど、ルールがない時代はこの序列にかなりの価値があったから……」
「一位が王家に支えてたんですよね?」
「うん、今は序列はあっても固定されてるから、あくまで王家使用人とか、賓客向け使用人みたいな区分になってるのと、人数もかなり減ってツバキもボタンも協力してるって、勿論、トラブルはあるけどね」
王家の衰退に合わせ、必要とする使用人の数も減り、それに伴って多くの足切りも行われてきたのだろう。
優秀な者のみが残されてゆく過酷な社会で、サザンカは最下位ながらも足掻き続けたのだ。
「追放って、つまり解雇?」
「ビジネス的に言うとそう。その上で宮殿はサザンカ家の名誉や栄誉を全て買い取ることにしたから、彼らはそのお金で起業したってきいたかな」
「それは退職金?」
「うん。でも買い取りは、どちらかと言えば救済でさ。何百年も世代を変えて仕えてくれた人は、『そういう生き方』しか知らないから、せめて一回だけお金をあげるから平民として頑張ってほしいって感じ」
「そう言われると、確かに……」
ジンもまた騎士になる以外の選択肢を考えたことがなかった。武家に生まれ、タチバナを学んだ事でやるべき事とやりたい事が合致したが、それが合致しなかった場合など想像もした事もないからだ。
「サザンカに執行された名誉と栄誉の買取は強制で、宮廷使用人という肩書きも使うことも許されない。これまで持ってきた誇りやプライドを全て取り上げられるから、本当の意味での『やり直し』になるし、そのみじめさで恨まずにはいられないのもあり得る話だよね」
「でもそれで人を貶めるのは、許しちゃいけないと思います」
「うん。だから僕は、僕に味方する皆を必ず守ると決めた。セオも例外じゃないから、何ができるか考えてみるよ」
「はい……!」
ジンは、久しぶりの料理に戸惑いつつ目玉焼きと作り置きの野菜をだしておいた。慣れないままお茶を出し忘れ、キリヤナギが自分で用意しにゆき脱力してしまう。
「今は何か考えてます?」
「まだ何もできない……」
キッチンカウンターへ項垂れてしまい、ジンは何も言えなかった。黒幕の目処は立っていても、関与の証拠も見つけなければならず、騎士団の調査が入った時点でそれはもう騎士団の仕事だからだ。
「散歩ならできるのかな……」
「散歩?」
何もできないといいつつ、結局何か考えているのはキリヤナギらしくも思う。ジンの作った朝食を黙々とたべる彼も新鮮だった。
「美味しい、ありがとう」
「美味いです?」
「セオには勝てないけど」
当たり前だと、ジンは口から出そうな言葉を飲み込んでいた。午前から「散歩」にゆくのかと思えば、彼ははリビングから出ずジンとストレッチとか軽い運動だけをして過ごす。
キリヤナギによるとトラブルがあった日に外出すると、使用人が変な噂を立てたり、またこれからの対応を決める最中に仕事を増やすのは申し訳ないとも話していた。
そして午後を回る頃、ノックからリビングへ、一名のバトラーが入ってくる。ジンも初対面の彼は、キリヤナギを見て綺麗な礼をした。
「ご機嫌よう、キリヤナギ王子殿下。本日よりこちらにてバトラーを務めさせていただく、ロバート・ボタンです。どうか何なりとお申し付け下さい」
「自己紹介ありがとう。ロバート、今日からよろしく」
「光栄です」
「宮廷騎士団ストレリチア隊嘱託のジン・タチバナです。よろしくお願いします」
「タチバナの騎士殿。ぜひよろしくお願いします、早速ですが昼食をご用意させていただきましょう。騎士殿もまもなく休憩時間ですからどうぞお気になさらず」
「まだ空いてないからいいよ? 散歩にも行くから外で食べようと思ってるし」
「左様でございますか。しかし、お誕生祭が近く、安易に外食されるのはどうかと、騎士殿も休憩されなければなりません」
「べ、別にきにしてないすけど……」
「数年程まえから、ここへお勤めされる騎士殿の業務体系がかなり問題視されております。騎士殿の為にも、ここは定刻通りの休憩が必要かと……」
ジンは、唖然としていた。キリヤナギは表情を変えないまま腕を組んでいる。
「今更?」
「ストレリチア卿より、あまり言及はしない様にとされておりましたが、ツバキ殿の急な謹慎により、我々使用人も本来の業務形態では立ち行かなくなっております。ここはどうか我々を助ける意味でもご協力いただきたく」
「……それならわかった」
「ご理解頂けて恐縮です」
「じゃ、じゃあ俺、昼行ってきますね……」
「一緒に食べないの?」
「殿下、騎士殿には騎士殿の時間が必要では? 加えて申し上げるならば、私は殿下のバトラーです。騎士殿の分は仰せつかっておりません」
「それは、僕の頼みでも?」
「それならば、ご了承致しますが……」
ジンは大混乱していた。ロバートに睨まれて何も言えず、しどろもどろに答える。
「いえ、俺の分は良いです。では殿下失礼します」
キリヤナギの返答を聞く前に、ジンは逃げ出してしまった。雰囲気に耐えられなかった自分が情け無く、頭を抱えながら一人食堂へと向かう。
その道中で、戻ってきたグランジと顔を合わせジンは2人で宮殿の食堂の席を取った。
「セオ、どうでした?」
グランジは目を合わせず、首を振っていた。よくはないと言う態度に、ジンは言葉を挟めずにいる。
「こっちはボタンさん? のバトラーと合流したんですけど、少し不穏な雰囲気で……」
「……無理だと思う」
グランジの言動に、ジンは返す言葉もない。彼はわずかな手荷物から、かなり汚れた10冊のノートを取り出してテーブルへと積んでいく。
「これは?」
「セオがまとめていた引き継ぎ用の資料……」
ジンは、更に絶句した。
一番上のノートは、キリヤナギが抜け出した際の行き先が全て記され、戻ってきた時の対応の全てがメモとして残されている。
2冊目は好きな食べ物や気に入った味の傾向。体調不良の時の献立がリスト。3冊目は性格面の詳細な情報と、口にしてはならない地雷ワードとか、トラブルが起こった際の対応方法などの記録が数冊にわたって残されていた。他にも肌質が弱く異常が見えれば対応が必要とか、洗髪剤に関しても時期によって決まったものがあるなど、キリヤナギ本人が意識してなさそうな所まで気を遣われている。
「これは一日だと無理っすね……」
グランジは頷いていた。そもそも物心がつく前から仕える使用人に、突然現れた者が敵うわけがない。セオが繰り返していた「価値の維持」と言う言葉の意味が理解に及び、ジンは不安だった先行きに、さらに不安を得て頭を抱えた。
グランジは、普段飄々としていたジンが珍しくストレスを抱えているようにもみえて心配そうにしている。
「正念場だと思う」
「は、はい……」
ほぼ初めてきた食堂は、メニューも充実していて味も美味だったが、ジンは心配とセオのいない喪失感があり、殆ど喉を通らなかった。
そんな最中、ロバートとリビングへ残ったキリヤナギは、一旦自室へ戻り一人デバイスをみて時間を潰す。
セオの謹慎に加え、ロバートの言動が気に入らずストレスを感じてしまった為、ジンが戻るまでは落ち着きたいと考えたのだ。
通信デバイスを触り、ぼーっと調べ物をしているとノックから返答を待たずロバートが入ってくる。
「声ぐらいかけてよ……」
「……申し訳ございません。昼食をお持ちいたしました」
ワゴンに載せられた食事は、キリヤナギの好みに合わせられたもので引き継ぎがされているのがわかる。しかしその日は、セオの件もあり朝食が遅かった。
「まだ、要らないかな……」
「ではご入用の際にお声がけくださいませ」
ロバートは、ワゴンと共に再び部屋を出てて行く。雰囲気は普通の使用人だが、キリヤナギはやはりロバートにセオの働きを重ねざる得なかった。
174
リビングには、休憩を終えたジンとグランジが戻り、ロバートを含めた3人は一度事務所にて話すことになる。
初対面のグランジは、ロバート・ボタンと言う彼をまるで観察するように見ていた。
「これが、グランジさんがセオから受け取ってきた引き継ぎ資料です」
「なるほど。業務内容はある程度は伺っておりましたが……」
「多分、全部は難しいと思うので一応……。あとこの資料は、絶対に本人には見せないようにお願いします」
「タチバナ卿、それは?」
「殿下は、マニュアル通りに動く相手にはマニュアル通りの対応をされる方みたいなので……」
「ふむ? まるで鏡のようですね」
軽く資料を読んだジンだが、これはまだジン本人もよくわかって居なかった。ジンはキリヤナギと対峙した時、マニュアル通りの対応をされたことがないからだ。
「概ね了解いたしました。では私も間も無く休憩へ入らせて頂きます」
「はい。多分これから外出すると思うので、留守は任せて良いです?」
「えぇ、お出かけの間、お部屋のメンテナンスをさせて頂きます」
ロバートは終始無表情だった。ジンは仕事仲間なら付き合えそうにも思えたが、横のグランジは相変わらず寡黙で自己紹介以上の言葉は挟まない。何も言わないグランジに目線を送るロバートに、ジンは思わず口を開く。
「グランジさんは、無口なだけなので……」
「そうなのですね。失礼致しました、シャープブルーム卿」
「……」
首を傾げるグランジは、やはり深く考えていない。ジンが感じたのは「何が失礼だったのだろう?」だが、通訳をするまでではないと心に留めた。
キリヤナギへ騎士が戻ったことをメッセージで伝えると、彼は外出用の洋装に着替えてリビングへと現れる。
「昼いいんすか?」
「空いてないし、長く出てるつもりないから帰ったら食べるよ」
武器はジンが持ち、キリヤナギはジンとグランジと共に街へと繰り出してゆく。
自動車で向かったのは、セオの妹ソラが勤めていたと思われる大きなビルで、クランリリー騎士団が占拠していると思われたが、そこは誰もおらず、表札もまるで何も無かったかのように真っ新になっている。
「本当にここです?」
「うん。クレイドルが教えてくれたんだけど……」
ソラのみを騎士団へと差し出し、他は逃げたのだろうと思える。確かにこれでは証言者がソラしかいない為、騎士団は保護せざる得ない。
「タチが悪いっすね……」
「現場には、賭博用のサイコロとか小物が残ってたって……。手慣れてるから、最初から狙ってたのかもしれない」
伝えられた店名は、すでにウェブサイトも綺麗に削除されていて跡形もない。ここまで撤収が完了しているのは、騎士団が来ることを分かっていたとも取れる。
「メディアと繋がってるのかな……」
「ますます怪しいっすね」
キリヤナギは、後部座席でずっと何かを調べていた。ジンは隣で周辺に気を配り、異常がない事を確認する。
運転席に座ったグランジに、キリヤナギは背筋を伸ばしてぼやいた。
「お腹すいた。今日は帰る」
「わかった」
この後は誕生祭の衣装の採寸がある。明日も倉庫から出される儀式用の小物などの確認が控えていて、調べるなら本格的な練習が始まる今のうちに動かなければならない。
1時間ほどの外出から戻ったキリヤナギだが、リビングへと戻るとテレビの前に置かれていたコタツテーブルが片付けられていて驚いた。
「おかえりなさいませ」
「ロバート、コタツは?!」
「時期が違う為、収納させていただきました」
迎えたロバートは、お茶を用意して待っていてくれていた。リビングは綺麗に片付いているが、あったはずのものが所々なくなっていて混乱する。
「ここに置いてたベースは?」
「埃が被っておりましたので音楽室へと戻させていただきました」
「時々弾いてたんだけど……」
「そうでしたか……お戻しいたしましょうか?」
「それなら、いいや。……テレビの横に写真は?」
「それは私室の方へーー」
「また勝手に入ったの!?」
「お言葉ですが、ここの使用人には自由に出入りすることは許可されております」
「だからって……」
「ツバキ殿は許されていたのでは?」
息が詰まりキリヤナギはこれ以上言及は辞めた。部屋を見回すと置いていった昼食もなくなっている。
「作ってくれたお昼は……?」
「外で召し上がってこられるのだと思い、片付けさせていただきました」
「……」
キリヤナギが言葉を失っている。
ジンもグランジも何も言えず黙っていたが、昼食に関してはキリヤナギが悪い。
「着替えてくる……」
「お手伝いをーー」
「入んないで!!」
怒っている。久しぶりにみた子供のようなキリヤナギを見送ると、今度はグランジが書棚を見て固まっていた。ジンが覗くと置かれていた漫画本が全てが参考書や文学小説に入れ替えられ、リクエストボードもなくなっている。
「ここ最近はリビングにてお勉強をされる機会が増えたと伺い、参考書籍をこちらへ移動させて頂きました」
「お、俺らも読んでたんですけど……」
「こちらは殿下のリビングフロアです、騎士殿はご自身でご用意ください」
グランジは、ここ最近ジンがリクエストした少女漫画を熱心に読んでいた。回収されたと聞いたグランジは、無言でリビングを出て事務所へと戻ってしまう。
ジンにはわかる、グランジもそれなりに怒っている。
「タチバナ卿」
「は、はい?!」
「キリヤナギ殿下は昼食を済まされましたか?」
「え? まだ、です、ね」
「そうでしたか。ではもう一度ご用意をーー」
「こ、この時間は夕飯にも影響ありそうなので!! おやつで良いんじゃないっすか!?」
「なるほど、では、ご準備いたします」
ロバートが作ったのは小ぶりのパンケーキだった。当たり前だがジンやグランジの分はなく、セオの気前の良さが恋しくもなってしまう。
「あれ、グランジは?」
「事務所みたいです、仕事ありそうで」
宮殿の屋内用の衣服に着替えたキリヤナギは、リビングこテーブルの上に準備されているパンケーキに顔を上げた。
「作ってくれたんだ。ありがとう」
「当然です」
「二人の分は?」
「騎士殿の分はございません」
「そ、そっか」
「ご入用ですか?」
「い、いらないっす!」
キリヤナギは脱力したように座り、パンケーキへと口をつける。部屋を見回しながら書棚から漫画本が消えている事に気づき顔を顰めていた。
「部屋の参考書が無いと思ったら、こっちだったんだ……」
「はい、最近はリビングでお勉強されていると伺ったので」
「う、うん……」
キリヤナギはげんなりして、まるで諦めたような雰囲気を漂わせていた。キリヤナギのリビングでの学習は、集中ができないときの気分転換にやっている事でそれは常時では無いからだ。
「採寸いってくる……」
「いってらっしゃいませ」
ジンはキリヤナギに付き添い二人でリビングを後にする。
採寸後の家族での食卓は、ツバキの件をシダレ王が少しだけ話してくれて、彼はたとえ疑いであろうとも犯罪に加担して居たのは事実であり、真相が明らかになるまでは復帰させず、世間の反応を見ながら対応するとも言われる。
無難ではあるが、一度不祥事を起こした関係者を雇用し続けることは、王宮の信頼にも関わる為、来週末の査問会にて一度審議されることとなったらしい。
「あんまり時間ないっすね」
「うん。でもそれまでに上手い言い訳を持って来れればいいんだけど……」
認めてしまった為、今更なかった事にはできない。最悪追放か降格だが、このどちらになってもキリヤナギにとっては絶望的だからだ。
「どうします?」
「とりあえず情報収集かな……」
ジンは当たる先が思い浮かばず、返事に困ってしまった。
複雑な表情を見せていたキリヤナギは、リビングにいるロバートの前では一変し、まるで何事もなかったかのように一日を終えてゆく。
その態度の代わりように、ジンもまた『鏡』と呼ばれるその性格が腑に落ちてしまった。
そして次の日の日曜日。ジンがリビングへと出勤すると寝巻きのキリヤナギがロバートへ何かを相談している。
よく見るとキリヤナギの肌は真っ赤に腫れていて、それは頬から首へと広がっていた。
「大丈夫すか?」
「保湿剤が、合わなくて……」
「これは大変失礼致しました」
「痛い……」
保冷剤で冷やされ、キリヤナギは痛みと痒みを堪えている。腫れは小さくはなく広がっている様にも見えて、尋常ではなかった。
「これは、公務無理じゃないです?」
「以前使われていた物が、低品質な物だったので変えさせて頂いたのですが……」
「僕、貴族向けの物が軒並みダメで……」
合わないにしては腫れ方がひどく、アレルギーのようにも見えた。抑えなければ悪化しかねないと、ジンは即座に提案する。
「とりあえず病院ですね。自動車は俺がーー」
キリヤナギは首を振り、ジンを引っ張って宮殿の医務室へと向かった。そこにいた初老のドクターは、首から頬を真っ赤にするキリヤナギに「あー」と納得した声を上げる。
「久しぶりにやりましたな」
「痒い」
「アレルギーです?」
「えぇ、男性向けの化粧品に入ってる成分に顕著に反応しはるんです。ここ最近は落ち着いてはって久しぶりですね」
「うぅ……」
「殿下向けの薬、残ってたかなぁ……」
ドクターは裏へと消え、他の職員へ聞いてまわっていた。ガサガサと漁る音も聞こえてくる。
「いつからです?」
「去年? いや一昨年やね。突然発症しなさって心配しとりましたが、ツバキ殿がいいものを見つけなさったとおもっとりましたわ」
キリヤナギはぼーっとしていた。調子が悪そうに見え、ジンはキリヤナギを一旦自室へ戻し、自身は薬局へ薬を受け取りに行く。
「いった……」
「掻いたらだめっすよ……」
保湿剤を塗った場所は、真っ赤に腫れ上がって痛々しい。一応は洗い流したがピリピリと刺激があるらしく、悶えるような声をあげていた。
「今日大学に行こうと思ってたのに……」
「大学? 日曜なのに開いてるんです?」
「クラブ棟は開いてるみたい。ちょっと調べたいことがあってさ……」
クラブ棟はサークル向けの部室のある建物の事だ。それは大学の裏口に隣接して建てられており、授業がなくとも学生証があれば出入りできるようになっている。
「そんな状態でいけます?」
「痒くて辛い……」
「薬効いてからまた考えたらいいと思います」
アレルギー反応を抑える薬は大体眠くなるのでキリヤナギは飲みたくなかった。しかし、痛みと痒みの辛さを考えると飲まない選択肢はなく、キリヤナギはしばらく自室で休むことにする。
キリヤナギを自室へ残し、リビングへと戻ったジンは、一度回収された様々な化粧品がテーブルへ戻されていることに気づいた。その中でも保湿剤やローションは、ほぼ医療品に近いものでもあり、その他の多くは肌への刺激をかなり抑えられたものに溢れている。
「私どもは、最善を尽くしたつもりではありましたが……」
「俺も、知らなかったので」
ロバートはセオが残した引き継ぎのノートを見つつ事務所にてぼやいていた。ノートにはアレルギーの記載もされていて、主に洗髪剤に含まれていたり、ものによっては食品にも入っている。
また宮殿の秘匿事項の一つでもあり、ツバキ組でも数名しか共有されて居なかった。
「宮殿の秘匿事項だったようです。昨日と今日で唐突な人事変更もあり、伝達ができていなかったと」
「俺は、ロバートさんなりの気遣いだったなら、それはそれでいいんじゃ……、確かに俺でも安そうなの使ってたら疑問に思ってたと、思うし……?」
「大変ご迷惑をおかけいたしました。今後は名誉挽回の為、さらに尽力致します」
「殿下、怒ってなかったみたいなのでまぁ?」
反省したように見えたロバートは、自身が回収していた化粧品などを全てメモしている。ジンがどうしようか考えていると、てを止めたロバートが口を開いた。
「タチバナ卿。よろしければ殿下のこれらの化粧品を戻して頂けますか?」
「わかりました。あの、他にも手伝うのでリスト作ってください」
「ありがとうございます。すぐに準備いたしますね」
今は協力しなければ、おそらく乗り越えられない。彼はセオではなく、ロバートと言う違う人間で、彼には彼への付き合い方があると、ジンは前向きに捉える。
*
午後には起きたキリヤナギは、薬も効いて腫れが治り、ほっと肩を撫で下ろす。
久しぶりの反応で酷い目にあったが、ロバートが故意ではない事はわかっており、キリヤナギは責める気も起きなかった。それは宮殿におけるボタン組は主に客人を迎える使用人達であり、消耗品の入れ替えは日常的に行われているからにある。
今度から確認しようと反省し、着替えを始めると、着用したインナーからピリピリとかゆみが走り思わず脱いでしまった。
嫌な予感がしてリビングへでると、そこには食器を磨くロバートと掃除機をかけるジンがいる。
「ロバート、これ変えた?」
「えぇ、昨日外出の際に衣替えをさせて頂きました」
「痒くて着れなくて……前のない?」
「それは、申し訳ございません。古くなっていたために全て処分してしまいました」
「えぇ……」
「マジ?」
「ボロボロだったもので、申し訳ございません」
キリヤナギは頭を抱えてしまった。新しいインナーは決して安いものではなく、高品質なものだが、おそらくアレルギーが出た肌で着用するのは刺激があったのだろうと察する。
「これしかない?」
「今は……。私がこれより城下にて購入して参ります」
「それならもういい。僕、これから出かけるからついでに買ってくる。決まったところあるから……」
「それは、大変心苦しく……」
「大学に用事があるし、ロバートは待ってて……」
「大丈夫すか?」
「他に着れるもの探す……」
キリヤナギはロバートの制止を待たず、自室へと戻ってしまった。ジンは追うべきが悩んだが、着替え中はいつも叱られるため大人しく待機する。
「タチバナ卿。殿下は普段、どのような素材のものを使われているのでしょう?」
「俺も聞いてなかったすね……。でもこれガーデニア産の機能的なやつなんで、これでダメなら多分オウカの綿が安定な気もします」
「なるほど、助かります」
「直接きいてまた連絡しますね」
話していたらキリヤナギが出てきた。インナーを必要としない、カジュアルな春らしい洋装にジンは思わず見入ってしまう。
「ジン、どうかした?」
「いえ、何も……」
「どうかお気をつけて」
「行ってきます」
特に機嫌を崩した様子もなく、キリヤナギはジンの手を引いてオウカ町へと繰り出す。その道中で人が多くいる衣料品マーケットへ足を運び、キリヤナギは数枚のインナーを購入していた。
「生活ができない……」
買い物袋を下げ、思わずぼやいたキリヤナギへジンは思わず言葉に詰まってしまった。確かにこの二日間だけでも食い違いが凄まじく、本当のレベルで生活が危ういからだ。
「引き継ぎされてないのは分かるし、ロバートは悪くないし」
「そうですけど、化粧品を勝手に変えたのは怒ってもよかったような。中身あったのに」
「ボタン組なら、多分普通なんだ。彼らは賓客向けの使用人だから……中身が減ってたら、新しいものを用意するのが基本だし……」
擁護するキリヤナギだが、ひどく悩んでいるようにも見えてジンは口を挟めない。軽く深呼吸して感情を抑え、落ち着いて続けた。
「僕はもっと他に怒るところがあるとは思ってて……」
「他に?」
「まぁ、今はいいかな。気力もないし……」
少し怖くなってしまうが、確かに今考える事ではない。
目の前に迫る査問会で、ツバキの関与がどう言うものだったかを、こちらに有意な形で示さなければならないからだ。
「そういえば、グランジがリビングに来ないのはなんで?」
「ロバートさんが嫌いらしいです。顔も見たくないって……」
「グランジってそういうところが直球だよね。ジンは?」
「俺は別にどっちでもいいかなって」
「ジンのそれ、グランジより酷い事言ってるよ?」
「え??」
キリヤナギはしばらく睨みつけ、踵返してしまった。
グランジは、その態度から相手へ「嫌い」であると示している。これは一つの対話であり、態度によってはのちの信頼回復も考慮できるが、ジンの「どちらでもいい」は、そもそも相手に期待しないばかりか興味もなく、何をしても信頼することもなければ、友達でもない、ただ相手へ欲しい言葉をかけるだけの残酷な態度とも言える。
「なんでそんななの? リュウドから学ばなかった??」
「え、す、すいません。反省します」
ロバートはあくまで仕事仲間で、ジンそれ以上考えてはいなかった。ただ問題が起こらないようにサポートをしているつもりだったが、キリヤナギは改めてジンを見る。
「でもロバートが相手なら、そのぐらいがいいのかもね」
「え?」
キリヤナギは、それ以上何も続けなかった。ただ呆れているような。疲れたような表情は、期待に添えなかったように思えて不安になる。
「何かあるんすか……?」
「僕もロバートが苦手なだけ」
渋々口にされた言葉にジンは衝撃を受けて固まっていた。
*
大学の裏口は、建物の入り口でもあり、2人は守衛に学生証と騎士の身分証を見せて敷地内へと入ってゆく。
日曜日の大学は校舎のほとんどが閉められているが、運動場や体育館にはサークルの掛け声が響き、多くの生徒が行き交っていた。
クラブ棟が目的のキリヤナギは、案内板で手書きされているクラブリストを頼りに、歌唱部の部室を目指す。その部室へ近づくごとに、ピアノや楽器の音がきこえてきてジンは学生時代の吹奏楽部を連想していた。
「ソラちゃんって、音楽部なんですか?」
「セオから桜花大の歌唱部って言うのは聞いてて、時々見かけてたんだよね」
「会ってた?」
「ここだと僕に構わない規則があるから、大学で話したことはないかな」
あったなぁと、ジンは返事に迷っていた。しかし、結果的に王宮と無関係な友人ができたならそれはよかったとも思う。
通路へ並ぶ扉を一つ一つ確認してゆくと、「歌唱部」と言う文字にペンでデコレーションされた表札が目に止まる。
ノックから返事を待ち、扉が開かれると前髪を束ねた濃いメイクの女性が現れ、後ろには生徒が発声練習をしたり、イヤホンで音楽を聴いている生徒もいる。扉からでてきた楽譜を持つ彼女は、突然の男性の来訪に顔を真っ赤にして扉を閉じてしまう。
「(え、嘘! 変な人きた!)」
「(変な人??)」
「(変な人じゃない! 王子!)」
「(王子って、ヤマブキ王子?)」
「(ちが、ちがうって王子!!)」
パニックになる声が聞こえてくる。一瞬見えた散らかった部室から、ガサガサとものを動かす音が聞こえ、数分後もう一度扉をひらいた。
「ごご、ご機嫌よう。歌唱部へようこそ……殿下、騎士様」
「こ、こんにちは。驚かせてごめん。ちょっと聞きたいことがあって……」
前髪を下ろした彼女は、メイクを美しく塗り直していて、二人を簡単に片付けられた部室へ招いてくれた。
中央のテーブルへ座らされ紙コップのお茶を出された二人はその日きた理由を3人へ話す。
「ソラの働き先なら少し聞いてます。ウチら4人でユニット組んでるし?」
「オーディションに落ちて、すごい凹んでたら、たまたまスカウトがいて拾われたっていってました」
「スカウト?」
「正直ちょっと怪しいなって思ってるんですけど、ウチらからしたら練習もちゃんとでてくれるし、いい声出て引っ張ってくれてもいたんで、ここで水さして角が立つのもなって」
「今日も練習のつもりで集まってたんですけど、ソラだけこないし、ちょっと心配してて、代わりに王子がきたのは何かありました?」
2人は少し悩んだが、明日報道されることでもあり、渋々3人へと口を開いた。ソラの現状を聞いた彼女達は連絡が取れない理由を理解して唇を噛む。
「やっぱり騙されてんじゃん!」
「あーもう、止めとけば良かった……」
「気づいてたんだ?」
「放課後に深夜まで歌わせる事務所なんて聞いたことないし、明らかに店の雰囲気おかしそうだったもの」
ソラは、カジノのおもちゃで遊ぶ店だと聞かされていたらしい。しかし店には明らかに豪華な服を纏う貴族がおり、賭け事がされていたのは話だけで明白だった。
「そのスカウトさんの名前は聞いてる?」
「確か、ツツジ様?」
「ツツジ……?!」
「上の名前はなんだっけ、えーっと……」
「タクヤ? もう勘当されてるって話だったような」
その名前にキリヤナギは覚えがない。
毎年誕生祭にて挨拶にくる地主達は、みなその度に一瞬だけでも顔を合わせ、その家族も紹介されるが、タクヤ・ツツジと言う名前は聞いた事がなかった。
「ツツジ卿のこと、ジンは知ってる?」
「はい。うちの地元なんで、付き合いありますけど……」
「ほんとです?!」
「その人信頼できるんですか?」
「いや、その、それ以前にツツジ卿の家って確か女の子しかいない記憶あって……」
「はーー??」
ツツジ家には、2人の姉妹がいることをキリヤナギは覚えている。タチバナの道場があり縁も深いことから、ジンの許嫁候補とも話されていたのを思い出した。
「そういえば、許嫁の件はどうなったの?」
「い、今?!」
「お、突然の話題変更?! でも興味あります」
「続けてください」
「貴族さんってよくありますよねー」
女性はこの手の話に目がない。ジンは顔を真っ赤にしつつ、渋々口を開いた。
「ツツジ家の長女のスイレン・ツツジ嬢に、好きな人できて、それで破談、しました」
「好きな人?」
「なんでも結婚直前まで行ったけど、浮気されたとか……今は、男が、信用できなくなってるとは聞きましたね」
「マジです?」
「かわいそう……」
「騎士さん。癒してあげて下さいよー」
どうしろと? と思わず口に出そうになる、キリヤナギはしばらく考え、デバイスへタクヤ・ツツジの名前をメモしていた。
「みんなありがとう。いい情報を聞けたと思う」
「いえいえ、王子様。ソラはどうなります? もどってこれますか?」
「僕もほぼ身内だから、今の状況に納得はいかないし、手を尽くして見るよ」
「王子なら、こうガツーンとソラは無罪だー! っていえません?」
「僕にその権限はないんだよね。今回の一番の被害者は、その土地で犯罪を起こされた地主さんだから、ソラがコノハナ町の地主さんとの信頼回復しないと無理かなぁ」
「ぇー、ショック……」
「手を尽くしてくれるって言ってくれてるじゃん、感謝するとこ!」
キリヤナギは笑って返していた。
歌唱部の皆と別れ、再び大学を出たところでジンがキリヤナギを見ると何か考えているようにも見える。
「違和感あります?」
「偽名にしても、なんで『ツツジ』なのかと思ってさ」
「地主の名前を出せば信頼されるからじゃ?」
「それは当たり前だけど……、ジン、さっきの破談の話はどこまで知られてる?」
「え、そもそもそんな話題、表に出なくないです? 恥ずかしいし……」
直後、ジンは繋がった。そしてスイレンの浮気相手を連想する。
「そこつながります?」
「婚約したって話は、多分みんな知ってると思う。僕もちょっと聞いてたし、ジンかなって思ってたけど……」
破談を察し、あえて言わされたと気づいて、ジンはうっと息を飲んだ。
「破談は話さないよね。なら、そのまま『結婚した』と、誤解を招くことはできるんじゃないかな」
「つまりスイレン嬢の浮気相手が、タクヤ?」
「タクヤは多分偽名じゃない? 言い訳できるようにツツジだけ使ってる可能性もありそう」
「巧妙すね……」
「まだ想像だけど……」
しかし辻褄は合ってしまう。しかもこれは、より親密に付き合いがある貴族でなければ知られることもない事実だろう。婚約は祝うべきだが、破談したことを誰しも知られたくはないからだ。
「できたら、これからツツジ卿に会いに行きたいけど……」
「か、勘弁してください……」
ツツジ家とタチバナ家は破談はしたが、ジンからツツジ家へゆくことは復縁をしに来たと取られる可能性もある。
その当時タチバナ家としては、お互いに関心も低くスイレンへ良き相手ができたのであればと、円満に破談となったが、ここで許嫁の話をしない中での来訪は、もう「そのことは水に流した」とも受け取られかねないからだ。
「スイレン、いい子じゃん?」
「俺は苦手なんです。純粋すぎて……」
スイレン・ツツジは、誰から見ても濁りなき環境で育った無垢な女性だ。それ故に捕まえる男を間違えたのは、ジンにも安易に想像ができた。
「守ってあげればいいのに」
「俺が罪悪感で死にそうになるんです」
どう言う罪悪感なのだろうと、キリヤナギは首を傾げていた。
日が暮れる前に帰宅すると、リビングが完全に衣替えされ、テーブルにはクロスが敷かれて居たり、リビングチェアが豪華なものに変えられて居たりと完全に『貴族の部屋』となっていてしばらくフリーズしてしまう。
「おかえりなさいませ」
「ロバート、ただいま……。これどう言うこと……?」
「王家としてあるべき位のものを揃えたに過ぎません」
「……」
リビングなのに、酷く落ち着かない。嫌な予感がして自室へに戻ると、こちらもソファだけでなくベットもシンプルな物から刺繍付きの豪華な物に変わっていた。
「いかがされましたか?」
「ごめん。頑張ってくれたのは分かるんだけど、僕、こう言うのは苦手だから、戻せないかな……?」
「苦手とは?」
「派手だと気が散って落ち着かないから……」
「これは王家としての価値の為にも必要な事だと思うのですが?」
「自室ぐらい、好きにさせて欲しいんだけど」
「しかし、最近はご友人を招かれていると……」
言葉もなく、改めて部屋を見回すとベッドの付近に飾って居た2本のサーベルが消えて居る。思わず部屋中を探すがどこにもない。
「ロバート、僕のサーベルは?」
「メンテナンス記録がかなり前でしたので、研師へ出しておきました。一月程で仕上がるそうです」
「は……」
かつてないほど衝撃をうけるキリヤナギに、ロバートは驚いていた。呆然と見据える最中、大きく深呼吸をしたキリヤナギはゆっくりと話す。
「どうして? そんな事頼んでない」
「しかし、刃が摩耗していては本来の用途にもーー」
「人を傷つけるための武器にしてなかったんだ……。それに、二本ともだされたら僕は丸腰だ……」
「それは……考えに及ばなかった私の不備です。申し訳ございません」
「僕は、昨日から部屋に入らないでって話してる。どうして聞いてくれない?」
「その件につきましては、我々の出入りは陛下より許されております」
「規則ではそうだ。でも僕は入ってほしくない。この意思を、君はもう二回も無視した。これ以上聞き入れてくれないなら、僕は君がここにいる事を認めない」
「妃殿下が悲しまれますよ」
「母さんを話をもってくるな!!」
「殿下」
怒りを露わにするキリヤナギへ驚き、思わず声をかけてしまう。王子は態度を崩さないままリビングの出口を目指した。
「少し頭を冷やしてくる……」
自室から出ていったキリヤナギは、待っていたグランジにも声をかけ出かけてゆく。
ロバートはしばらく呆然としていたが、残ったジンの方へと目を向けてきてギョッとしてしまった。
「だ、大丈夫です?」
「……タチバナ卿。申し訳ございません。またも殿下の機嫌を損ねてしまいました」
「いえ、あのこれは個人的の価値観の問題というか」
「価値観、ですか?」
「殿下は王子ですけど、騎士称号もってる騎士でもあるんですよ……」
「存じておりますが……」
「これは、えーっと王子だからとかじゃなくて、これは騎士の話なんですけど、俺たちにとって武器は、言わば自分の半身みたいなもので、武器を手を離すことは牙を抜かれた猛獣みたいなもんなんです。何も持ってないのは丸腰のただの人間で、称号はあっても武器がないと騎士として証明にならないと言うか……その上で、殿下は自分でとった騎士称号を『王子』って肩書きよりも大事にしてる人なので、それで怒ってたのかも……?」
「半身、ですか……」
「あくまで考え方の話ですけど、プライド的には触られるのも嫌な人はいて、騎士が武器を相手に渡すことは『忠誠』や『信頼』の意味も込められてるんで……、まぁ、今時そう言う考えを持ってる人もそんないないですけど……」
「タチバナ卿は、殿下がそのような考えをお持ちであることをどう思っておられますか?」
「俺は、付き合いも長いし『らしい』としか思わないです。でも殿下に抜かせたらいけないとは思ってて……その為に騎士やってると言うか……」
「殿下の武器は、『儀礼用』とも聞いており、その様な騎士道をお持ちだとは承知しておりませんでした」
「資料に書かれてなかったです?」
「まだ、1冊目しか読めておりません……。最優先は誕生祭の手順だと思っていたのですが……」
ロバートはまだ配属されて2日しかたっていない。確かに不可能だと同情もしたが、彼は元々部屋には入らないで欲しいとも言われていた。
「殿下、部屋に入るの嫌がってたけど、なんで入ったんです?」
「お恥ずかしい話ですが、ツバキに劣らぬバトラーであると、殿下にわかって頂きたかったのです。しかし、ここまで彼の方が喜んでくださったのは、昨日の『昼食』のみでした……」
「……」
「ボタンは、やはりここに入るべきではないのかもしれません。我々はあくまで客人を迎える使用人、染み付いたこの『接客』は、やはりすぐには拭えなかった……」
「ロバートさんは、使用人としてはめちゃくちゃ優秀だとはおもうんですけど……」
ロバートは顔を上げ、ジンの言葉に驚いていた。無表情だった彼は少し涙ぐんでいるようにも見える。
「本当に、弟に聞いていた通りの人ですね。貴方は……」
「弟?」
言われて数秒考え、はっとした。ボタンと言う名前をジンはよく知っている。
「リアス? 宮廷騎士の……」
「えぇ、弟です。ここに来る前、リアスに過酷だと聞き覚悟を決めたものですが、困ったら、ここに居る貴方に頼ればいいと、きっと助けてくれると話されました」
「……」
何も言えない。現時点で落ち込んでいる彼を見て放っておくことができなかったからだ。
「タチバナ卿、私に殿下のバトラーは務まるでしょうか?」
「それは、ロバートさん次第だと思いますけど、ロバートさんが殿下に向き合うなら答えてはくれると思います」
「……ありがとうございます。では私はこれから、もう一度殿下へ謝りに行きます」
「付き合いましょうか?」
「それは助かります。お部屋を出られてしまい。お探ししなければならなかったもので」
ジンは、ロバートと共にキリヤナギを探しに向かった。
グランジと「頭を冷やしてくる」と言っていた彼は、衛兵に聞くとバトミントンのラケットを持って歩いていたとも聞き、ジンはロバートと共に王宮を散策する。
すれ違う使用人達の言葉を頼りに探すと、一回にある広いホールにて2人は黙々とバトミントンラリーをしていた。
程良い運動は確かにストレスも緩和される為、頭を冷やすのは丁度良い。近づいてくる2人に、グランジが気づきキリヤナギもこちらを向いた。
「ジンに、ロバート……」
「バトミントンは久しぶりすね」
「うん。グランジが買ったからやろうって」
「……」
反射神経を鍛えると言うバトミントンだが【未来視】のグランジとしてはどうなのだろうと考えてしまう。しかし今の問題はそこではなかった。
「キリヤナギ殿下。私は貴方を騎士として認めていなかった事を、心から反省しております」
「僕は怒ってるのはそこじゃない」
「……は」
「僕の言葉を無視した君は、母さんまで持ってきて僕へ言う事を聞かせようとした。これは明らかに『目付役を建前に僕を下に見ている』」
「……!」
「使用人同士で何を話しているのかは知らない。興味もない。だけど、僕と対等に話したいと言うなら、何故同じ立場で話さない? 噂に感化されてそれができなくなってるんじゃないの?」
ロバートは絶句していた。グランジはまるで敵の様にロバートを睨みジンは驚いていた。
「ツバキが落ちればボタンが繰り上げになる。よほど嬉しいんだろうね」
「そんなつもりはーー」
「嘘つき」
「……!」
「僕に仕えるなら好きにすればいい。好きなだけ母さんに貢献して点数を稼ぐんだ。セオが戻ってきた後に『お役目をやり遂げた』とも言えれば十分だろ?」
「……」
「ツバキが戻って来なければ、ずっと居るのかな? 別にいいけど」
「あの……」
「ジン? どうかした?」
「言い過ぎじゃ……」
「僕は何か間違ってる?」
「いえ……」
「ロバートは、僕に謝りに来たんでしょ? なら謝るべきところを僕が指摘して何が悪い?」
思わぬ返答にジンは衝撃すら受けてしまった。しかしこれはキリヤナギがロバートと対等に話すために土俵を同じにしているに過ぎず、これを否定することは「立場を変えたくない」と言う心理だ。
「ジン、僕はもう子どもじゃないよ」
そうだったと、ジンは反省した。子供の様に親の管理されるのではなく、自分の意思で選び責任を負う覚悟がキリヤナギはある。
「ロバート、君は何も分かってはいない。生まれてから今まで、宮殿に仕える事へ溺れてきたんだろう? 周りが肯定してくることへ悦を得て、ただそれだけで生きてきた。僕は君が嫌いだ。君の様な人がいるから、宮殿の使用人は平民の皆に嫌われる」
「何故、そこまで?」
「君はここで出会った新たな『同僚』を当然のように蔑ろにした。食事を作らないのはいい、そう言う決まりも無いから、でも君から出た言葉は、明らかに仲間を蔑んだ失礼な言動だ。見下して当然の様に蔑み、凹んだらジンに甘えるのも僕は気に入らない」
「え??」
「ジンはね。優しいんだよ。落ち込んでる人を見たら放っては置かない『自己満足の善意がある』。僕はそこが気に入っててね。どんなに酷いことされても『自己満足』の為に優しくするから、勘違いしない方がいい」
ロバートは振り返り、絶望した表情でジンを見てきた。ジン自身も無意識だったが、その言葉は全て当たっている。
ジンは直感でロバートへ苦手意識を持ちながらも、肯定的な言動で彼を元気づけ、ここまで連れてきてしまったからだ。
「他にも色々あるけど、僕の気持ちはこのぐらいかな? さぁ、ここまでこ嫌悪感を持つ僕に対し、君はどんな謝罪をくれるの? 上部だけの『反省しました』とか『心を入れ替えて』みたいな言動は、もう聞き飽きて僕には響かない。沢山ある謝罪の中で君は正解を選べる器か、ここでみせてみろ」
まるで似合わない命令に、ジンは背筋がゾッとかき立つのを感じる。それはキリヤナギの怒りが半端なものでない事を示し、ロバートと言う1人の人間と向き合っていると言う事にもなるからだ。
張り詰めた空気が漂う最中、黙っていたロバートが動く。すると彼は何故かジンの方へと向き、ゆっくりと膝をついた。
「タチバナ卿」
「え」
「使用人の身分でありながら、失礼かつ無礼な言動を話し、申し訳ございません。殿下のおっしゃることは全て事実です。私は、貴方の肯定的な言葉に甘えていた。貴方ならば私の考えを分かってくださると一方的に信じ、タチバナはこの程度なのかと見下しておりました」
「……」
ジンは黙って聞いていた。ロバートは更にグランジの方をみる。
「シャープブルーム卿。私は貴方が一番の厄介だとも考えておりました。無口であり、何も伝えない貴方はむしろ都合も良いとも思っていた。申し訳ございません」
「……」
「そして、殿下。貴方様に私の謝罪が何処まで響くのかは分かりません。しかし、おっしゃった事は概ね事実です」
「……」
「ボタンは、ツバキと共に長く宮殿へと仕えてきました。貴方がたが栄えていた頃、我々は競いながら日々を過ごしてはおりましたが、王族が減り宮殿に住むものが減り、その役目は微々たるものになるに連れ、なお重要な役割を持ち続けるツバキへ憧れを持ってしまった」
「……」
「憧れは妬みとなり、憎しみとなり、我々ボタンがツバキに対して持つ感情はとても良いものとは言えなくなってしまった。その感情は、下につく使用人の皆にも伝播し、僻み妬みが蔓延る集団へと成り下がっている。私はそれが悪とわかりながら、止める事はしなかった。ただ自分が正しいと信じなければ自分を保てなかった」
「……」
「妃殿下の命を最優先にと、目の前にいる殿下のお言葉が耳にはいらず、数々の暴挙をここに謝罪致します。そして私のこの態度は長く培われたものでもあり、この数日で治せるとも思っておりません。しかしどうかもう一度チャンスを下さるのなら、貴方の元へ仕えさせては頂けないでしょうか……」
「どうして? 僕は君の思い通りにはならない。むしろマイナスだ、職場環境を重視する君にとっては不都合な場所だろ? それともそこまでして母さんの栄誉が欲しい?」
「いえ私は、難しければ難しい程に燃え、やりがいを得る性分にございます。確かに以前のツバキ。セオ殿がなし得ていた事に対し、それ以上の誉を得る為にと尽くしてまいりましたが、私の想像以上にキリヤナギ殿下は鋭く人をよく見ておられた。ここに貴方様を見下していた事を反省し、もう一度、やり直しをさせて頂きたく思います」
キリヤナギは真剣な表情で、跪くロバートを見ていた。周りには1人だけ膝をつき騎士が周りを囲う環境に気づいた使用人が様子を見にきている。
決めかねている様に見えたキリヤナギだったが、小さく嘆息し告げた。
「なら今日はもうリビングに来ないで、明日からだ」
「感謝致します……」
ロバートを無視するように、キリヤナギは振り返らず立ち去ってゆく。ジンは、膝をついたままのロバートを残すか迷ったが、キリヤナギに言われた事を思うと止まってもいられず、王子の後へ続いた。
「あの、殿下。結局正解だったんです?」
「概ね? でも僕は、僕に最大限仕えてくれる二人をぞんざいに扱うのが許せなかっただけだからね」
ジンは、しばらくポカンとしていた。気にしても居なかったが、確かに目の前で口にされた言葉は不快なもので、キリヤナギにとっては大きな地雷だったのだ。
グランジに相手にされないまま、ジンの優しさに都合よく縋るロバートをキリヤナギは許せなかった。
「……殿下って怒ると怖いんすね」
「ふふ、見直した?」
「すこし……?」
「ジンも大概無礼だよね……」
「ジンだからな……」
グランジにも言われ否定出来ないが、許されているのは身に沁みて分かっている。
「俺には怒らないんです?」
「僕がジンの気に入ってるとこを怒るのは本末転倒じゃない? ジンはそのままでいいよ。今日みたいに僕が守ればいいし」
「……」
「ジン?」
「直していいっすか?」
「なんで??」
「殿下に護られるのは……ちょっと」
「ジンってなんでそんななの??」
怒った。キリヤナギは機嫌を損ね、その日はジンと自室には入れてもらえなくなってしまった。
グランジによるとそこがなくなれば、キリヤナギがジンを求める理由がなくなるので、直さない方がいいと何故か本気で説得された。
ロバートは、キリヤナギの言いつけを守りその日リビングへ現れる事はなく。ジンは事務所にて再び彼と顔をあわせる。
戻ってきた彼は、少しだけ垢抜けた表情をしていて熱心にノートを読み込んでいた。
「ロバートさん。昼間はなんか大変な事になって、すいません」
「いえ、全ては身から出た錆でしょう。ここが過酷だといわれるのも概ね理解致しました」
「そもそもそんな言われてるんです?」
「他の職場に比べここだけは異様です。皮肉ですがそれは私が体現している」
うっ、とジンは言葉に詰まった。しかし、確かにその通りでギャップに驚いた程でもある。
あらゆる事が事務的にこなされている宮殿の業務の中で、キリヤナギの居室はセシル・ストレリチアの方針において王子の感情が重視されているのだ。
またロバートの仕事となる貴族への接客は、彼らが普段体験できない「接客」を行わねばならず、ロバートは、キリヤナギに『自身の思う王家の品格』を押し付けてしまったとも言える。
「ボタンを含めツバキもですが、使用人達はやはり位の高いものからプライドが高く、幼い殿下へ思い通りにならない不満を持っていることは明らかでしょう」
「それは?」
「殿下は、その位に見合った高価な物よりも素朴で飾らないものを好まれると伺います。我々使用人は、そんな殿下を『王子』と認められず、仕事を嫌い。楽をしようとした。しかし、お優しいあの方はそんな我々もお認めになり、必要とあらば提案も受け入れて下さっておりましたが、それは我々にさらなる傲慢な心を抱かせてしまった」
「……」
「私へのあの態度は、自分はもう大人であると言う真っ当な反論でもある。使用人は提案は行えても、その結果の責任をとることもない。ただ傲慢に、理想を押し付けるだけとも言える。嫌われて当然です」
ここ数日のロバートの行動は、彼が話すそのままとも言えた。『王子』として必要のないものを部屋から排除し、理想に合わないものを入れ替えてゆく。そこに本人の意思を挟まないのは、ジンからみると病的にも感じるが、ロバートの思う理想の『王子』に育てたかったと言われれば筋も通り、それにヒイラギ妃の意思もあれば使命感に駆られるのも理解はできる。
思えばセオとキリヤナギの喧嘩も、大概セオがキリヤナギを子供扱いした時に起こっていて、そしてそれは王妃が絡むと苛烈になり、2人はしばらくは口を聞かない。セオですらも感情で踏む地雷を、ロバートはこの数日で全て踏み抜いたとも言えるが、特定のワードに過剰反応するのは、客観視すると子供っぽくも思える。
「タチバナ卿。改めてとなりますが、無礼を働きながら縋ってしまい、申し訳ございません」
「それは、俺も大概だって気づいたんで、お互い様だと思います」
「ここへ仕えるものとして、貴方とももう一度やり直させて頂けませんか?」
手を差し出され、ジンは驚いてしまった。仲直りならシズルのようにお決まりの「信頼」に関しての言葉を想像したが、関係性をやり直すのは予想外だからだ。
「俺が、何処までロバートさんの期待に添えるかはわらないすけど、よろしくお願いします」
「ありがとうございます」
ジンは戸惑いつつもロバートと握手をしていた。定時まで働いた彼は、時間通りに退勤し、夜の時間はジンがリビングで寛ぎながら警護する。
参考書はリビングに移動されたままで、キリヤナギは寝巻きのまま静かにジンと勉強をしていた。
程よく眠気がきて自室に戻ったキリヤナギを見届け、ジンもまた事実に戻って退勤する。日課にしている格闘ゲームの反射神経ツールで遊んでいると、唐突にキリヤナギからメッセージを受信した。
(たすけて)
ジンは軽装のまま自室を飛び出し、衛兵の制止を押し除けてリビングへと飛び込んだ。そこにはひどい咳をしてテーブルに手をつくキリヤナギが居て、彼はジンを見て座り込んでしまう。
「咳が、止まんなくて……」
呼吸すらままならず、ジンはアレルギーを疑ってすぐさまドクターを呼ぶように指示を出す。深夜ではあったが、初老の彼は30分ほどで現れ。咳止めも持参してくれた。
「何かありましたかい?」
「わからないです。俺は呼ばれただけで……」
咳止めが効いてようやく落ち着いたキリヤナギは、ソファで休み。ジンはグランジと衛兵に任せて自室を回る。寝るならベッドだろうと思いシーツに触れるとその瞬間ひんやりとした感覚をえた。
その感覚は男性向けの化粧品に入っている成分と同じものだからだ。
「シーツの洗剤。なるほど……」
「多分ですけど……、とりあえずベッドが無理そうなので、今日は俺の部屋で寝て頂きます」
「それがいいでしょう。他にもある可能性ありますしな」
咳の疲れで、キリヤナギはぐったりしていた。ドクターは、キリヤナギがジンの部屋で横になるのを見送り、反応を抑える薬だけを置いて一旦は帰ってゆく。
キリヤナギの横で厚めのマットの上で横になるジンは、なぜか怒りが湧き立ち寝付く事ができなかった。
ロバートがやったのかは分からない。だが、キリヤナギのアレルギーを一度見ているのに、もう一度同成分の洗剤を使うのは、故意ではないだけでは済まないとも思えてきたからだ。
もしも早めに寝ていて、メッセージに気づかなければどうなっていたのだろう。想像するだけでも怖く、ジンは思わず彼の呼吸を確認していた。
そして、次の日。早朝からキリヤナギは、客間へと移されリビングは再び大改修が行われる事になるが、ロバートはキリヤナギを暗殺しようとしたと言う疑いをかけられ、一旦は騎士団へ身柄を預かられる事になる。